2014年4月19日土曜日

"J'ai souvent cuisiné du bamboo, moi."

朝掘り筍を買い求め、お吸い物にしたり蒸し焼きにしたりして、美味しくいただいている。

商店街の馴染みの八百屋で、これは少し固め、これは柔らかめ、食べる人のお好みなんやけどね、と指し示される。母の咀嚼力を考えて柔らかめがいいかなというと、「うーん、でもね、筍って歯応えで楽しむもんでもあるやん」。母を、そして母の好みもよく知る八百屋夫婦は「固めといっても朝掘りやし、よそで売ってるのより柔らかいから大丈夫」と、しっかり締まった筍をすすめてくれた。

値が張るが、さすがに新鮮なゆえの美味しさは格別だ。いろいろに調理して、旬を味わう喜びにひたっている。

このように素材がよいと、若干料理が下手でも問題にならないから助かる。たいした手を加えなくても済むのは、段取り下手で技術もない私のような人間には大きな味方。味覚の鈍くなった母には何を食べさせても、美味しいと言うのだが、たとえば先日友達のレストランに行った時のように、心底美味しいと思った時は口をついて出る言葉が違うのだ。レストランと張り合うつもりはないのだけれども(笑)、ウチでも、この筍のように、旬の新鮮な素材でシンプルに仕上げると、美味しい〜としみじみ言ってくれる。おそらく、今がその季節なのだ、と歳時記を確かめることで、かつての食事、かつての調理の記憶が甦り、今摂っている食事に重なって味わいが幾重にも増幅するのだろう。
母はほぼ毎日商店街へ出向き、八百屋、魚屋、肉屋とさんざんおしゃべりして食材を買ってきた。その時季のいちばん美味しいものを、馴染み客だからと少しおまけしてもらって買ったことを少し自慢げに話しながら、料理した。お世辞にも料理上手だったとはいえない母だが、自分の母親、兄嫁、そして姑から教わった、いわゆる昔からあるものは考えることなくいつもつくった。今この時期の筍もそうで、八百屋が自前で持っている竹薮から朝掘ってくる筍は当然高いが、午前中に必ず買いに行く母にはいつもサービスしてくれて、だから母はシーズン中何度も筍を買い、私たち家族は来る日も来る日も(笑)若竹煮と筍の澄ましと筍ご飯と木の芽和えをいただいた。

大鍋にたっぷり水を入れ、八百屋がつけてくれた米ぬか袋を入れて、筍を茹でる。
煮立ったら弱火にする。早くも筍の薫りが家中に満ちる。
「ええ匂いしてきたわあ」
「よう筍、炊いたなあ私も」
「お父さんが好きやったわあ、筍」
食べ物の話をすると、必ず「お父さんが好きやったわあ」というフレーズが出る。父はなんでも好きだったな、そういえば。

今の私は高価な筍をそう何度も買えないけれども、あと一度、買おうかな。という気になっている。去年もおととしも、一度ずつしか買えなかったが、それはどちらかというと時間の問題だった。時間のある今は予算が不足しているが、なに、ほかの何かを切り詰めよう(笑)。

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