2014年5月27日火曜日

"Ça marche pas."

今月から母は週1回のペースで「リハビリデイサービス」なるものに通い始めた。

8時45分に送迎の車がくる。たいてい、車には先にひとりかふたり、老婦人が乗っている。みなさん80代とおぼしき貫禄で、しかし溌剌としてらっしゃる。
「おはようございます、よろしくお願いします」
新米で若手の母はいつもそう言って車に乗る。ひとりでは乗れないので、よいしょ、と乗せてもらう。というより、体を押しこんでもらうというほうが正しいかな。
リハビリではない普通のデイサービスセンターでも母は「若手」である。周囲は80代後半から100歳。母は昨秋の誕生日でようやく77歳になった。90代の老婦人がたに比べたらひとまわり以上も若いのである。「若いなあ、まだこれからやなあ」と、口々に羨ましがられるそうだ。しかし、そういった80代後半以上の、お年を召してすっかり貫禄十分な老婦人たちよりずっと、母は年老いて見える。
すっかり背中が曲がってしまい、それなりの衣装を着ければ間違いなく魔法使いのおばあさんになれる。後ろからグレーテルに押されて頭からかまどに突っ込んで焼け死んでしまう魔女。だからさー、背筋、がんばってのばそうよ、母ちゃん。

そのリハビリデイには、フロアいっぱいにスポーツジムばりの高性能トレーニングマシンが10機、並んでいる。アームなんとか、レッグなんとか、という名称がついている。機能的にはスポーツジムにあるものと同じだが、器械のデザインが異なる。白基調で、丸みのあるやさしいデザインだ。マシンに取り囲まれるように、休憩のための椅子が幾つも並べられている。一部の壁面には薄型の映像モニターがはり付けられていて、高齢者向け体操の映像がずっと流れている。その前に立ち、あるいは座って、体操をするお年寄りもいる。歩行練習用の平行バーもある。隅には簡易ベッドが置かれていて、マッサージを受ける人、疲れて横になる人、あるいは運動をする人など、多用途に使われているようだった。
各自が思い思いに運動をしているようにも見えるが、このリハビリデイでは全員が声を揃えて数をカウントするので、「みんなで一緒にトレーニング」しているのである。休憩している人も、声を出すように促される。声を出すということはお年寄りにとって大きなリハビリになるらしい。一年前から通所している普通のデイサービスでも、よく歌を歌うそうだ。それは昭和の懐メロのこともあれば、子どもの頃よく歌った遊び歌や、文部省唱歌のこともあると、母が言っていた。「ものすご歌の上手な人が、やはんねん、大きな声で、きれいに歌わはる」
リハビリデイでは歌は歌わないが、このように、ひとアクションごとに、エクササイズの終わりになるとスタッフが「さあ数えましょう!」とかけ声を上げ、全員で10数える。数えたら、マシンを交代。スタッフに手助けされながら次のマシンに進む。
利用者には、自分でさっさと次の器械に移り、自分で負荷の加減を決めてさっさと進めることのできる人もいる。母は、手すりなどしっかり握る箇所がなければ立ち座りもできないので、マシンへの移動もスタッフに抱きかかえられるようにして行う。足にせよ腕にせよ、自分の意のままにはほとんどならないので、マシンに座るのも、からだの部位をセットしてもらうのも、トレーニングのし始めも、スタッフ任せだ。

今月の第1週目は、初日ということで全部のマシンをこなしたそうである。母の場合、マシンをたくさん使ったとか、エクササイズを長時間やったとかそういうこと以前の、数分ごとにあっちからこっちへ移動し、立ったり座ったりする、ということだけで相当な運動量だ。ふだん、家では座ったきり、ほぼ動かないのだから。
それと、非常に気疲れの激しい人なので、初めての場所、知らない人、そうした環境にいるというだけで初舞台に立つ新米役者のように緊張していたであろう。そういう気疲れのために発熱することは、まだ母がバリバリ活動していたときから頻繁にあったことだ。
終了後、送迎の車に乗って、12時半に帰宅。ダイニングの椅子に、抜け殻のようになって座っていた(笑)。へろへろに疲れた、と背中が語っていた(笑)。それでも、昼食はしっかり食べた。やはり運動はいい、させるべきだ、と思った。

リハビリデイでもらった、施設ロゴ入りのミニトートバッグをどの利用者も持参しているそうだ。これからはこのかばんで持っていくねん。そして私の顔を見ながら「みんな、名前つけたはるねん」と言った。はいはい、ネームタグ、つくらしてもらいます、ハイ。


第2週目は、母の体の不具合に合わせて少しずつトレーニングプログラムをつくっていくそうで、いくつかのマシンを重点的に使ったらしい。私は、大腿部と腹筋の強化を希望すると連絡帳に記入しておいた。
今いちばん危ないのは、椅子に静かに座れないことだ。重力に任せて、落ちるように腰掛ける。柔らかい椅子ならいいが、かたい場所でも同じように腰を「下ろす」のではなく文字どおりドタッと「落とす」ので、腰の骨にヒビが入らないかとヒヤヒヤする。亡くなった女優の森光子さんが、高齢になってもスクワットを欠かさなかったそうだが、なるほどと思う。スクワットで鍛えるのは太ももと腹筋、そして足の裏全体で踏ん張る力だ。母にはすべて、無い。逆に言えば、これらが鍛えられて必要十分に筋力があれば、身のこなしも軽やかになるはずなのだ。
ドタッと落としたあとは、その腰を上げることができない。ウチにいる場合、テーブルを両手でがっしりとつかみ、テーブルにへばりつき、しがみつき、テーブルを持ち上げるんじゃないかと思うほどすごい力でもう一度縁をつかみ直し、テーブルに吸い付くようにして、腰を持ち上げる。
座るのは「落下」に近いので一瞬だが、立つのには、何分もかかる。
いや、時間はいくらかかってもかまわない。もう急ぐ理由などないのだから、今さら時間短縮は期待していない。ただ、今の状態だと、立つ・座る動作に費やすエネルギーがものすごく大きいのだ。だから、今、普段の生活でも、朝、ベッドから立つ。トイレの便座に座り、立つ。台所へ来て椅子に座る。立ってコーヒーを淹れる。また座る。……こんなことの繰り返しだけで、母は、昼過ぎにはもう燃料切れ状態になる。夕方になる前に、足がふらつくようになり、何かにつかまっていようと体を支えていようと、膝から崩れて、悪いときには転倒する。

2回目のリハビリデイから帰った母は、どことなく元気がなさそうであった。
疲れたのかどうかを尋ねたら、「そんな疲れてへん」という。体力的に疲れたのではなく、若干意気消沈していたのであった。
「ぜんぜん、できひんかった」
「何ができひんかったん? 難しいこと、やらされたん?」
「むずかしないけどな、わたしは体がしゃんとならへんし、ちゃんとできひんねん」
「そやけど、器械に座って、足乗せたり、腕ひっかけたりしたらええのやろ。そんなんかて向こうの人が手伝うてくれはるんやろ」
「ちゃんと座らしてもろてもな、わたしは背中が伸びひんし、すぐうつむいてしまうしな、ちゃんとした運動にならへん」
「運動になってへんとか、いわれたん?」
「いわれてへん。いわれてへんけど、ぜんぜんできてへんことは、わかるさかい」
しょぼ〜ん。
あらあら。

イキイキはつらつとエクササイズに励む要介護老人たちが多い中で、やはり少し気後れしてしまっているようだ。

しょうがないやんか。全部ちゃんとできるんやったらべつに行かんでもいいやんか。できひんし、できるようになるために行くんやろ。

「そやなあ」

施設スタッフがつくったらしきペーパーカーネーションが、トートバッグの持ち手近く、私がつけておいたネームタグにくるくると巻きつけられていた。きれいやん、これ。
「こないだ母の日やったし、いうて、つけてくれはってん」
ようやく顔がほころんだ。

2014年5月11日日曜日

Fête des mères

2014年5月11日、5月の第2日曜日。日本では、「母の日」である。
日本では、と書いたのはこの母の日というもの、世界各国で祝う日がずいぶんと異なる。……と思っていたんだが、たしかにいろいろあるけれどもけっきょく日本と同じ5月第2日曜日というのが多数派のようである。なーんだ。
フランスでは5月の最終日曜日だ。
フランスに住み始めてすぐスケジュールノートを買うと、5月の最後のほうに「Fête des mères」の記載があった。へーえ、と私はなぜか、その日が日曜日かどうかを確かめもせず(だって渡仏は6月だったから5月のページはほとんど関係なかった)、フランスではその日が毎年不動の母の日なのだと、しばらく思い込んでいた。国によって違うんだよ母の日って〜などと吹聴したかもしれん……はずかしー。何日だったかなあ、その日。5月31日だったような気がする。そうだ、きっとそうだった。「フランスでは5月31日が母の日なんだよ!」って、私は何人に言ってしまっただろうか(笑)。

母のない子も多いだろうに、母、母と数日前から世の中がうるさいうるさい。

母は偉大かもしれないが、人間も雌である以上子を産むのが自然のなりわいであって、もちろん人間だからこそ産まない選択もあり、産まないからどうこう言われる筋合いもないし、つまり、母であるかどうかをそんなにやいのやいの騒ぐのってもう止めたらどうよ、と私は思わなくもないんだがどうだろうか。クリスマスは経済界の陰謀だしセントヴァレンタインはチョコレート屋の陰謀だし花粉症の増大は製薬会社の陰謀だが、母の日は花屋の陰謀じゃないのかと勘ぐりたくなるくらい、ウルサイ、ウルサイよ。およそ生物はみな雌から産み出されるわけだが、そのうち、産んでくれた母親たる雌にくっついて乳を飲むのはほ乳類だけ。おおかたのほ乳類は乳離れしたら自分で生きていくんだが、人間だけがおっぱいだけでは飽き足らず、訓練しなければ自分の意思で排泄もできないし、道具も使えないし、ルールも理解しない。しかしそれらを習得していくのは母だけに依るのか? 母以外の要素がとてつもなく大きいのでないか? 人間は、人間だからこそ喜怒哀楽があり、祝いもすれば弔いもし泣きも笑いもするのだけれども、だからってそれは、すべて母のおかげなのか?

ノンだ。

女は、産んだら懸命に育てる。本能がそうさせるのだ。何も阻害要因がなければふつうその本能が働く。正常に働けば、生活上の物質的な多寡はあれど、子は育つ。なにがしかの阻害要因があると本能は働かないこともある。人間の弱いところ(あるいは強いところか?)といえるだろう。本能が働かない女を母親にもった子には、育児放棄されたり虐待されたりといったことも起こる。しかしそれは、全体から見れば少数の、まれなケースだ。報道が盛んにされるので虐待する親が増えたなどという論説を見かけるが、大多数の女が、産めばちゃんと育てているのだ。多くの場合、特別なミッションを神から与えられたとかそんなタイソウな意識はもたずに、産んだ子が可愛いから育てるのである。

だからって、自分ひとり、あるいは連れ合いと二人でだって、完璧な子育てができるとは限らない。自分の親とか親戚のおばちゃんとか保育士さんとかご近所さんとかさまざまな人の手を借りる。母親自身、完璧に育てられた完全無欠の人間などではあり得ないのだから、その自分から出てきた子がどの程度のもんかなんてわかりきっているではないか。せめて自分が信じるものをこの子にも信じさせたい、自分がいいと思うことをこの子にもいいと感じてほしい、できることがあるとしたらその程度で、はっきりいって母親でなくてもできることだ、そういうのは。

私の母は、夫(私の父)の家業に専従していたので、私を産んですぐ仕事に戻った。というとカッコいいかもしれないが、父の母、つまり姑が孫可愛さに母から私を取り上げたのである。「あんたはややこの世話せんでよろし」と、生まれたばかりの赤子からなかば引き離されて父の仕事に戻されたのだった。昔は、自営業の家では大なり小なり同じようなことが起きていたであろう。舅姑に子育てを助けてもらえず家業と育児をすべて押しつけられていた女のほうが多かったに違いない。それはそれでたいへんな目に遭っただろうが、ウチの母のように、赤子を取り上げられてしまうのも相当辛かったであろう。私はしたがって、母の背中で聞く子守唄とか、そんな思い出が皆無だ。母と密着した記憶がないので、いつも母のことを何となく第三者的な目で見つめてきたような気がする。母のにっくき(笑)姑である私の祖母は、私を溺愛したわけだが、だからって私には、祖母はただひたすら怖かったという記憶しかないのである。女手ひとつで三人の息子を育て上げた祖母は地域の婦人会を仕切る有力者でもあり、とりあえず、私の知る限り誰もが祖母にひれ伏していた(笑)。たぶん、私に生来備わっているエラそーな性格は100%ただしく祖母から受け継いだものである。世界は私を中心に回っており世の中の全員が私のシモベという意識は長年培ったものではなくて、「血」なのだ。
祖母が亡くなったとき、「大好きなおばあちゃんが死んじゃった」というような可愛らしい感情はなく、コワいコワいバアさまがやっといなくなったという思いと、もうひとつ、こちらがより大きいのだが、自分の半身をえぐられたような、からだに空洞ができたような感覚に見舞われて、激しく動揺したのを覚えている。

いつもちょっと距離を置いて母親を見つめてきた私だったが、それではまったく母への愛情がなかったかというとそうではない。「母の日」には小学校で作文を書かされた。お母さんへの手紙を書けというのである。学校には母を知らない子が、あるいは父を知らない子も数人いたが、学校というところはそういう子どもたちへの特別な配慮は、昔はしないところだった(いまは配慮しているとはいえないが、配慮せんでもええところへ余計なおせっかいをしている)。ともかく私は母の日には母を感激させる手紙を、父の日には父が喜ぶ手紙を書いた。それらは単なる年中行事の一つと化していた。なぜカーネーションなのか、とかそうした行事のいわれなどを学んだ記憶はない。ただアメリカ由来のもんらしいといつの間にか心得ていた。外来の行事なんかもうええのに、それぞれ誕生日も祝うのにめんどくさいなあとぼそっと口に出してしまったことがある。「おばあちゃんにもお誕生日と敬老の日があるやろ、アンタらには誕生日、こどもの日、雛祭り、クリスマス、お正月といっぱいあるやんか。父ちゃん母ちゃんにも誕生日のほかにもう一個あってもええやんか」……このセリフは誰が私に投げたのだっただろうか、誰かが私に言ったのだが、誰だったかが思い出せない。誕生日のほかにもう一個。そらまあ、そやな。

自分が母親になってからは、ますます「母の日」が疎ましくなった。娘は律儀にきちんとカードをくれる。感謝の言葉が並んでいる。嬉しくないわけはないが、間違ってもらっては困るとも思う。感謝されるようなことをしてはいないのだ。産む性ゆえの当たり前の所業である。できないことは、しなかった。
私の母もまた、したくてもできなかったし、それを無理にしようとはしなかった。姑に逆らったり家業に従事しないことは家庭の破滅を意味したから。母も、できないことはせずに、身の丈に合った子育てをしてきたのである。

買い物から戻ると、「どこも母の日のカーネーションでいっぱいやろ」と母が言った。「うん。どこもかしこも。スーパーも、今日はカーネーションだらけ。100円ショップも」と答えたが、花屋の陰謀には負けたくないので(笑)買わなかった。というのは嘘で、カーネーション、高いねん。今日まで、めちゃ高いねん。明日やったら値が下がるかな(笑)。いや、ウチにはいつか弟が母に贈ったカーネーションの鉢植えがあるのだ。今年は全然花をつけないけど(笑)。要は、どうでも、いいわけである。

今日もいい天気だ。

2014年5月7日水曜日

"Si t'en avais fait avant, tu pourrais en faire cadeau."

冷凍庫には実山椒がたくさんある。
一握り、いや二握りくらいか、少量ずつ小分けしてビニール袋に入れたものが数包み。
そのうちのひと袋を炊いて、ちりめん山椒をこしらえた。

実山椒は、母がまだ台所に立っていた頃、買っては冷凍保存していたものだ。日付を書いておいてくれれば古いものから使えるのに、と私が文句を言うと、どれも一緒や、などと言う。母は旬のものが出回ると必ず(けっこう大量に)買い求め、あるものはそのまま、あるものは下ごしらえして、よく冷凍した(彼女の欠点は日付を書かないことと、冷凍したことを忘れることである)。実山椒は、商店街の露店の八百屋でいつも買っていたようだ。毎年筍を買う八百屋とは別の、行商に来ている八百屋だ。

母はよく佃煮をつくった。昔から、母は派手な料理は苦手だった。雑誌や料理本に載っている、または料理番組で放映された、そんな料理を見よう見まねでつくってくれたが、いつもさほど美味しくなかった。出来合いのカレールーで仕上げるカレーでさえも、たいして美味しくはなかった。ただ母はたいへん忙しいにもかかわらず、味はどうあれ食事の支度を投げ出すようなことはけっしてしなかった。私も弟も、よほどの場合を除いて文句を言わず黙々といただいた(ごくたまに、「よほどの場合」もあったのだが)。
そんな母だけれども、干し椎茸や、だしをとったあとの昆布をじゃこと炊いてつくる佃煮はとびきり美味しかった。葉つき大根があれば葉は捨てずに大根葉の佃煮にした。そうした佃煮に、実山椒が入ることも頻繁だった。
私たちは、母の佃煮とご飯があれば、主菜も副菜も不要であった。佃煮とご飯で延々と食べ続けることができた。そういえば漬け物も、祖母のぬか床を引き継いで母が漬けていた。佃煮と漬け物があれば、地味だけど十分な食卓だった。思えばオール自家製で、たいへんスペシャルであったといえるではないか。

その後子どもたち(=私たち)が成長し、食べ物の嗜好も少しずつ変わり、台所家電も進化して、母の手料理のレパートリーにも少しずつ洋食系が加わっていったが、母は相変わらず、だしをとったあとの昆布をリサイクルして佃煮をつくった。瓶に詰めてお隣におすそ分けすると、お隣からは別のお手製の佃煮が返ってくる。それもまた、格別に美味しい。


けっきょくは私も、同じことをいま、している。だしをとったあとの昆布と、根菜の葉や皮を刻んで炊き合わせ、佃煮にしたり、ちょっと趣向を変えてオリーヴオイルと白ワインで煮詰めたり。母と私の食卓にはそんな小さなおかずが点々と、焼き魚を取り囲んで並ぶ。

「これ、美味しいなあ、あんたのちりめん山椒」
「冷凍庫にほったらかしになってた山椒でも、ぴりりとええ味するもんやな」

過日の札幌出張の折りに会った知人には、老舗Q堂のちりめん山椒をひと包み、手土産に持っていったが、
「行く前につくってこれ持ってってあげたらよかったのに。Q堂なんかより、ずっと美味しいえ」
……。そら、どもおおきに。

有り難き言葉なれど、冷凍庫の中でいつから眠ってたかわからん実山椒ではちょっと……ねえ。
とはいえ、我ながら、ほんまに、美味しい。