2014年12月30日火曜日

L'état sérieux? (4)


10月18日土曜日。
朝、ガーゼを外して驚いた。明らかに薬が効いた様子だった。悪玉菌目下活動中といわんばかりの患部の生々しさが少し和らいだように見えた。悪化が止まったのだ。薬が効く。治る見込みがあるということだ。

前日皮膚科で尋ねた。
「なんでこんなものができてしまったんでしょうか」
二日間ほど熱のため臥せっていたとつけ加えた。
「ああ、たぶんそれですね。お年寄りは、2時間ほど動かず寝ているだけで床ずれができます。床ずれのできる部位はお尻に限りません」
お尻もふくらはぎも、わずかな間「寝たまま」だったことに起因する床ずれなのだ。業界用語では褥瘡というが、褥瘡ができたらいちばん恐れるべきは感染である。が、残念ながら現状は感染が疑われる。
「ふくらはぎのほうの、この白いのはどういう状態なんですか」
最初できていた血瘤が破裂したあと、生々しい患部が見えたが、まもなくその大半が白い組織で覆われた。
「皮膚や筋肉が、死んでるんです」
「死んでる。もう生き返らないんですか」
「生き返りません。この部分は切除するしかないです。ここを切除して、下から新しい細胞が皮膚を形成するように促すということをしていくと思いますが……お母さまは糖尿病がおありなのでなかなか……」
悪化のスピードはとてつもなく早く、回復のスピードはとてつもなく遅い。糖尿病のリスクはあらゆるところに潜む。

デイサービスのスタッフが言っていた「ホーカシキエン」も調べてみた。「ホーカシキエン」は「蜂窩織炎」と書く。外傷から細菌(黄色ブドウ球菌)が皮膚深部に入り込み感染して起こる。組織が蜂の巣のようになるからこう呼ぶとかどうとか……。むくみ(浮腫)、うっ血が原因のひとつで、まず発熱する、という記述もあった。とすると、最初の発熱は蜂窩織炎の兆候だっただろうか?
ともかくいまは、左臀部の褥瘡への感染をなんとしても防がなくてはならない。

参ったなあ……。
懸念事項はほかにもあった。
しかし、それはいまは、いい。

月曜日が待ち遠しかった。朝晩二回、臀部とふくらはぎの患部に薬を塗り直し、カーゼを取り替えなくてはいけない。たしかにこれは家では対応できない。感染するとヤバい黴菌たちは、ふつうの環境にふつうに生息している。完全防御は不可能だ。四六時中母のそばについてもいられない。
入院してほしかった。とりあえずいまは、誰かに母を委ねたかった。治療行為を専門職とする人びとのもとヘ、母を任せてしまいたかった。


10月20日月曜日。
皮膚科を受診。医師は患部を見て「抗生剤が有効なようですね。入院して集中的に投与すれば、必ず効果が出ると思います」と言い、てきぱきと入院手続きを進めた。保険証とお薬手帳、N病院の診察券を預ける。N病院の皮膚科、形成外科は充実していると、医師は言った。私は祈るような思いだった。
預けていた保険証等と紹介状を渡され、皮膚科医院から呼んでくれたタクシーに乗り込み、そのままN病院に向かった。不安そうな表情の母をよそに私は安堵していた。

L'état sérieux? (3)

10月12日日曜日。体育の日。
母は昨夜もぐっすり眠ったようだ。ふだんは夜中何度もトイレに行く。年のせいもあるかもしれないが、母の場合何年も前から、若く元気だった時からそういう傾向があったように思う。私はトイレのために夜中起きるということをまったくしないので、ちゃんと寝た気がしないだろうな昼間しんどいだろうなと、母を見ていつもそう思ったものだ。母は家業や家事の合間、いつも居眠りしていた。だから夜ぐっすり眠れるのは、母の人生にあまりなかったことだろうと思ったし、とてもよいことだと思った。これで、10日の晩と11日の晩、二晩続けてたっぷりと眠り、存分に横になって休めた。家の工事の大工仕事はほぼ終わったし、もうストレスを感じなくていいし、元気になるだろう。よかよか。私はそう思っていた。

朝検温すると36.5度だった。おお、よいではないか。だが、あまりに寝ていたせいで、足元がとても危なかしい。転倒されると困るので、ゆっくりと、ゆっくりと動くようにしつこく言う。母は回復したが、私は疲労がピークだった。今日は運動会だけど、自分が出る時だけグランドヘ行って、あとは家で母の様子を見がてら自分もだらだらゴロゴロするに限る。私はそう決めて、朝食を片づけたあと会場へ出かけた。

体育祭会場である近所の高等学校のグランドと我が家とは、徒歩で5分ほどの道のりだ。行ったり来たりも苦にはならないので文字どおり行ったり来たりした。
会場へ行く→応援する、または写真を撮る→競技に出場する→景品をもらう→家に帰る→母に顛末を語る→会場ヘ行く→模擬店でおにぎりやばら寿司やうどんを買う(正確には事前購入の食券と交換する)→家へ帰る→母と一緒に食べる→少し横になる→会場へ行く→応援する、または写真を撮る→競技に出場する→景品をもらう→家に帰る→母に顛末を語る→会場ヘ行く→閉会式&抽選会に出る→家に帰る→夕食を用意する→シャワーを浴び外出準備をする→母にむやみに動かないように言う→体育祭後の飲み会に出席する→おつかれさーんと互いの労をねぎらって家に帰る→食卓と台所を片づけて、母の寝る仕度を手伝う……

え。
自分の目を疑った。
何、これ?

母の右足ふくらはぎに、大きな大きな内出血らしき真っ赤な「まる」。
ほおずきほどに大きな大きな、水ぶくれのような血豆のようなものがふくらはぎに着いている。いや、着いているというのはもちろん間違いだ。皮下で何かが起こっているのだ。

そして右足は膝から下がぱんぱんに腫れている。
母の足は両足ともいつもむくんでいる。しかし、これは尋常ではないと思った。
なのに、母は足の痛みは少しも訴えない。

「足、痛いことないの?」
「痛いか、て言われたら、痛いかなあ」
新喜劇じゃないが私はずっこけそうになった。
「あのさ、痛いっていうのはさ、本人にしかわからん感覚やからさ、人に言われてから感じるもんと違うからさ」
母は可笑しそうにかかかと笑って「そやなあ」と言い、「歩いてて、ちょっと痛いと思うことあるなあ。なんで?」
真っ赤なほおずきみたいな箇所に少し触れてみた。「痛い?」
母は「何ですか?」みたいな顔をしている。患部じたいは痛くないのか。私は真っ赤な血豆の周囲に触れてみた。するととたんに、
「痛たたたた!」
と母が声を上げた。よかった。痛覚は生きている。
「痛いやろ? なんかわからんけど、すごく血が溜まってる。皮膚の下で膿んでんのと違うか」
「へーえ」
他人事みたいに、ニュースを聞くみたいに、ふんふんとうなずく。
どうしよう。これはこのままだといずれ血豆は破裂する。「ガーゼを当てとくわ。連休明けにお医者さんに診てもらおか」と私は独り言のように口にしたあと、またしても忌々しいハッピーマンデーを呪って舌打ちした。
母はベッドサイドの卓上カレンダーを眺めながら、「連休明けっていうたら火曜日やろ。デイ、行かなあかん」と言う。
「でも、この足のできもんみたいなもん、このままにしとけへんし」
「どないなってんの?」
ガーゼを貼る前に場所を示したが、母にとっては自分が前のめりになることで影になり、ふくらはぎの部分がはっきり見えないようだ。手を誘導して患部に少し触れさせる。「あ、ほんまや。なんかある」

これだけではなかった。
トイレから出た母が言う。「うしろ、なんや痛いねん」
母の紙パンツを少し下げて私はぐがあと声にならない声を出した。「これ!」
「なんかできてるか?」
「ばあちゃん、床ずれできてしもてるわ」
「床ずれ……」
私は母の左臀部に大きく広がる赤斑の端のほうに触れて、痛いかどうか尋ねた。どうやら痛みを感じるのは中央部分だけのようだ。パンツのゴム部分が当たる場所だ。
「ここも、診てもらわなあかんなあ」
私はつぶやきながら、三たびハッピーマンデーを呪いながら、赤斑の中央がずるりと剥けてしまわないことを祈った。そこにもガーゼを貼り、パンツの上げ下げの時に気をつけてねと母に告げて、寝かせた。

10月13日月曜日。振替休日。
母はふつうに起床した。
しかし、前夜に当てておいたガーゼは足もお尻も無残に外れてしまい、血と分泌液でぐっしょりと汚れ、足枕も汚れ、パジャマも汚れ……。いや、汚れは洗濯で落ちるが、この患部はどうすればよいのか。右足ふくらはぎのほおずき大の血豆は見事に破裂し、薄い表皮の向こうに白い皮膚組織が透けて見える。左側のお尻は、赤斑の真ん中あたりの皮が剥け、ヤバさ満開だった。救急を受診するべきなんだろうか。しかし、救急というほどでもない気もする。明日デイを休ませて皮膚科へ行こうか。いや待てよ、先月の頭部の怪我の、再検査日が10月15日だった。受診科は外科だが、お尻と足もこの時に診てもらおう。どうすればいいか、指南してくれるだろう。
ウチには、母の右足拇指の皮膚潰瘍の手当につかった化膿止めの薬がたくさんあった。ひとまずこれをつけておこう。
金曜の発熱時は疲れが原因だと思ったが、これが原因だったかもしれない。土曜日、いったん熱が下がって、再び39度以上の高熱が出た。この高熱は、右足ふくらはぎの腫れや左臀部の床ずれと無関係ではないような気がした。いずれにしろ、いつから発症していたのかはもうわからない。

10月14日火曜日。
母はちっとも起きなかった。8時半、デイサービスの送迎担当者から確認の電話がかかる。「今朝も8時50分のお迎えです」「すみません、今日、休みます。事前連絡できなくてすみません。またちょっと熱があって」
この時点では発熱を確認していなかったが、受話器を置いたあと眠る母の脇に体温計を突っ込んで測ると38度を超えていた。またか……。マズいと思ったが、寝かせておくよりほかにない。家の改修場所では、電気屋さんが電気工事に来ていた。コンセントの位置、エアコンの位置を指示する。
この日母は昼前に起き、遅い朝食を食べ、デイを休んでしまったことを悔やんだ。そない寝てたんか、と呆れたような声で、他人事のように言った。母が起きた時に例の患部二つを見たが、やばい状態がさらに進行しているように見えた。患部そのものが大きくなり、なんつーてもその皮膚の色がこの世のものではないように思えた。
通常、母がデイサービスセンターに通う火曜と金曜に人との約束や役所や銀行などの用事をまとめている。今日も、キャンセルできるものはキャンセルし、行くよりほかないものは、後ろ髪引かれる思いで母を置いて出た。幸い、目下重要な案件だとか急を要する課題など何も抱えていないので、母のことを最優先にして動くことができる。

困ったことがいくつかある。
先月派手な転倒をしたことは書いたが、その後定期検診に訪れた整形外科の主治医が、パーキンソン病の疑いに言及した。パーキンソンといっても、原因不明の難病とされるパーキンソン病そのものである場合、似たような症状の出るパーキンソン症候群である場合などがあり、「はっきり言えへんけど、どちらかである可能性は高いですよ。でもいまはいい治療薬もあるのでそんなに心配しなくていい。早くわかれば対処法はいくつかあります」と医師は言い、まずはMRIを撮ることから始まると続けた。
「前、入院してたね」
「はい、胃潰瘍でT病院、白内障でN病院。頭の怪我でかかっているのはS病院の外科です」
「ああ、S病院の神経内科の先生は、パーキンソン治療で有名な先生ですよ。いま診てもらってるうちに神経内科も予約を入れておくといいですよ」
……といういきさつがあって、10月23日(木)にMRIの予約をしていた。
10月25日(土)は、母の実家の法事だ。母と弟がお参りする予定である。
しかし、母にできた二つの患部からは、いずれもキャンセルに追い込むパワーを感じた。とても、悪い予感がしていた。

10月15日水曜日。
先月の頭部の怪我の最終チェックにS病院へ。再度CTを撮る。異常なし。
医師にお尻とふくらはぎを診てもらった。前後の状況も説明した。
「ああ、典型的な床ずれやね。数時間動かず寝てただけでうっ血するし、お年寄りは床ずれをつくってしまうんや」
しばし考えたのち外科医は、「ちょっとたいへんやけど、毎日消毒してお薬塗って、炎症治まるの待つしかないな。入院したら早いけど、お母さんこれ以上歩けんようになったら困るやろ。入院も良し悪しやねん」と言って大量の塗り薬を処方した。

10月16日木曜日。
いつもは水曜日に通っているリハビリデイサービスを、頭部怪我の検診があるのでという理由で木曜日に振り替えてもらっていた。足とお尻の状態が気になるが、事情を話して、腕や状態の運動だけにしてほしいと告げた。帰宅時、「傷のところ、拝見しました。私見ですけど、ご家庭での手当では限界があるのではないですか」とスタッフが言う。
「皮膚科に見せたほうがいいでしょうか……」
「大きな病院に行かれるとか……」
その夜、手当のために傷口を見たが、よからぬものがばくばくと増殖しているふうであった。ふくらはぎとお尻、それぞれ様態は異なるが、どちらも患部は拡大している。

10月17日金曜日。
かかりつけの皮膚科に連れていこう。と私は決めていたのだが、母は絶対デイに行くと言い張る。事情を話して入浴はなし、右足が腫れているので台に載せるなど足を休ませるようにしてほしいと告げる。センターに詰めている看護師が右足の患部を見てくれたらしい。「これはホーカシキエンだとのことです」(by送迎スタッフ)だそうだ。ホーカシキエン。なんだそれ。
とにかく足はパンパンに腫れたまま、熱も帯びている。母は前夜から四六時中痛いというようになっていた。デイから戻ってすぐ皮膚科医院の夜診へ向かう。
「ああこれは……かなり」
「かなり」
「厳しい状態です」
「厳しい」
「はい、キビシイです」
「キビシイとおっしゃるのは具体的には……」
「ご自宅での手当では追いつかないと思います」
「入院とか」
「のほうが、ですね」
「手術とか」
「場合によっては」
「はあ、そうですか、やはり」
「しかし今日はもう金曜の夜なので、抗生剤をお飲みいただいて、土日は様子を見てください。月曜日、朝一番にお越しください。拝見して、状況によってはすぐに病院を手配します」
15日にS病院の外科でもらったのとはまた異なる塗り薬と、抗生物質の錠剤が処方された。入院したほうがいいみたいよ、と母に告げると、法事行けるやろか、などと言うので、行けるわけないやろ、と返すと、ほなアンタ行ってきてな、などと言う。

いや、法事は弟にひとりで行ってもらおう。パーキンソンの検査はキャンセルだ。うまくいかないときは、何もうまくいかない。

2014年12月29日月曜日

L'état sérieux? (2)

前のエントリーは10月14日火曜日だ。もう2か月半が経ってしまったのか……ここ数日ようやく母も私も現状に慣れて落ち着いてきた気分だ。それにしても、10月10日金曜日に発熱して寝込んで以来、状況は一変したのだった。10月14日に書ききれなかった、母に起きた異変は、15日、16日と悪化の一途をたどった。



10月10日金曜日。デイサービスから帰宅した母は、とにかくすぐにベッドに入ってぐっすり眠った。7〜8時間経った夜の11時頃に一度そっと声をかけてみた。白粥をこしらえたので食べさせようと思った。体温も測りたかった。あまりよく眠っているようだったら無理に起こすのはやめようと思っていたが、意外にすっと目を覚ました。

「ぐっすり寝てたなあ。少し起きられる? お熱測ろか。ほんでご飯少し食べたほうがいいし」
「ん、食べる食べる」
体温を測ると37度台に下がっていた。少し楽になったようだった。おかゆを飯碗一膳分しっかりたいらげて、美味しかったを連発した。私は少し安心した。
このあと母は翌朝までぐっすり眠った。



10月11日土曜日。糖尿病を診てくれているかかりつけ医を受診。この日の朝、体温は37度ちょうどまで下がった。37度前後なら、母の場合あまり心配ない。母自身も安心したのか、朝食を(おかゆだが)しっかり食べ、外出の身支度をした。
主治医は肺炎の恐れがないか、またインフルエンザの検査もしてくれたが、母の体に変わった様子はなく、血糖値も高くはなく、HbA1cとやらも7台で安定値であった。
「疲れがたまって熱出したねえ、前も」
「先生、わたし、家でじっとしてるだけやのに。疲れるようなことしてしまへんのに」
私が横から口をはさみ、しばらく家を工事していて大工の出入りがあったことを説明した。
「通常と違うことがあると、精神的に緊張するしね。そういうことで疲れるんやで」
「そうでっしゃろか」
けっきょく、主治医の見立てでは、今回も発熱についてはさほど心配ないから家で安静にしてなさいということだった。
帰宅して、昼食。気をよくしていた母は、もうおかゆは嫌だという。それでいつものような昼食を準備し、一緒に食べ始めた。
しかし、やはりいつものようには食べ進まない。
「無理に食べんでもええよ。残してもいいし。おかゆに換えよか?」
「食べる食べる。これ、食べる」
だが、皿や飯碗を持っていることができない。母は背中が横にも曲がっているのでまっすぐに座れないのだが、いつもなら傾く身体を自らの力で背もたれに押し当てて座姿勢をキープするところ、やはり体力が落ちているせいかキープできない。椅子からずり落ちそうになるのを何度も押し戻してやる。戻しても戻しても傾くので、押し戻したまま支える。少し落ち着いたか。「大丈夫?」「大丈夫、大丈夫。おおきに」支えていた手を離してお茶を入れるために私は台所に立った。とその瞬間、ドタッ。皿と箸を持ったまま母が椅子から落ちた。ひっくり返った皿から、まだ半分ほどのこっていたおかずが散乱した。
「ああ、ごめん」
「ごめん、はいいけど、その体勢からどうすんのよ」
母の体は椅子から落ちたが、上体だけが右側へ落ちて、左足が椅子に残っているのだ。落ちた場所で、右ひじを床についている。ギャグ漫画の、人物がずっこけるシーンのような、コミカルなポーズだ。しかし笑うに笑えない。ふつうの健康体なら、椅子の上の足も床におろして膝を立ててよいしょと立ち上がればいいだけの話だが、母はその体勢からぴくりとも動くことができない。
床の掃除をしながら、どうしてあげればいいのと私は尋ねた。前日の朝、どうやっても母を起こすことができなかった。今回も無理だ。前日の朝の重労働が響いて、腱鞘炎持ちの私の両腕は痛みで熱くなっていた。非情に聞こえるかもしれないが、いたずらに手を貸して自分の体を壊したくはなかった。
「自分で起き上がってくれんと、困るよ。椅子につかまる? 手押し車のほうがいい?」
母の手押し車を寄せてきて、椅子の上に乗ったままの母の足を「これ、下ろしたほうがいいよね」と言いながら下ろした。母は右膝を曲げることができないが、伸びたままの右膝をリードするほど左足にも力がない。椅子につかまり、冷蔵庫にもたれながら、上体を起こし床に座る姿勢までこぎつけた。もちろん、腰を上げることはできない。椅子にすがってもみるし、手押し車を固定してつかまってみるが、とにかく身体が重すぎる。
ある程度まで上がれば、私の体に母が体を預けるかたちにできるので、そうするとよいしょと全体を持ち上げられる。しかしまったくの地べたから上げるのは負荷が重すぎる、私にとって。食器をすべて流しに移し、食卓を拭きあげて、私は溜め息をついた。ダイニングチェアが2脚、母を包囲するように配置され、そこに割り込むように愛用の手押し車がスタンバイしていた。なのに母は動けない。私が食器を洗っているあいだ、母は疲れきって冷蔵庫にもたれたままだった。また熱が上がるんじゃないかな……。

少し休んでまた力が湧いてきたのか、再び母は椅子にしがみつこうともがき、なんとか左膝を立てるところまでたどり着いた。「そのまま思い切り前に傾いて。前のめりになってみて、椅子にかぶさるように」私の言葉にしたがった母の、お尻の位置が少し上がった。
そこでようやく腰を上げることができ、私の手助けできる段階が訪れた。立てた左膝を維持するため、力なくへにゃっとすぐ伸びてしまう左足を固定する。なんとか上がった腰。それにくっついた棒のような右の脚を、足が床を踏めるところまで誘導する。それにともない左の膝も伸びて、ようやく両足を地に着けて立てた。
母の表情は困憊していた。もうへとへと。それは私もだったけれど。
「休んだほうがいいと思うよ。ベッドに横になり」
「そやなあ」
「明日、運動会やし」
「うん、観に行きたいしなあ」
そう、翌日の10月12日土曜日は、地域の学区体育祭なのだ。私もいくつかの種目に出場することになっていたので、母は観戦を楽しみにしていた。会場の模擬店で、うどんやお菓子を食べるのも大きな楽しみのひとつだった。
ようやく寝室へたどり着く。着替える。布団に入る。それから間もなくして大きないびきをかき始めた。
発熱は体力を奪うが、高齢者の場合はそれが甚だしい。転倒して起き上がるだけでも、体の不自由な高齢者にとっては非日常的な一大イベントというか一大重労働だ。母の場合、これまで幾度となく転倒を繰り返しており、自分でも起き上がるコツを心得てはきたが、実際衰えのスピードが激しく、こうすればコケても起きられるはず、という母なりの方法が母にも理解できないまま、もう使えなくなっている。

窓の外が暗くなった頃、母の様子を見に寝室を覗く。ごーごーいびきをかいている。体に触ると異常に熱かった。やば。再び熱が高くなっているようだ。明日出かけるなんてもってのほかやわ……つーか、ばあちゃん置いて私運動会行けるやろか……とひとりモゴモゴつぶやきながら、母のいびきを聞いていた。
夜中、もう一度覗くと母が目を開いた。
「熱が高くなってるみたいやで」
「そうか? かなんわあ」
「ちょっと測らせて」
39度を超えていた。よく寝てね。それだけ言って私は母の寝室をあとにした。日・月と連休が恨めしかった。まったくどこかのバカどもたちが決めたハッピーマンデーなんぞ、何もいいことはもたらさない。心の中で舌打ちをしつつ、でもなんのかの言っても私は明日走らなくちゃならないしなあと憂鬱な気持ちで、私も床についた。

 


2014年10月14日火曜日

L'état sérieux? (1)

週末、母が発熱した。
金曜日はデイサービスセンターにいたが、来所時に熱が高めであったということで入浴はやめ、午後再度検温すると38.5度だったという。
帰宅した母はほとんど歩行ができなかった。

その日は朝から異変続きだった。早朝まだ暗いうちに、トイレに行こうとしてベッドから立ち上がりそこね、転倒したらしい。私が起きて階下へ降りるとベッドの脇で情けない顔をして座っていた。母は床へぺたっと腰が着いてしまうともう自力では起き上がれないし、座る姿勢にもなれない。ここでの場合はベッドにもたれて座姿勢を保っていたにすぎない。だいぶ長いことそうしていたようである。
猫が来てさかんににゃーにゃーと声をかけてくれたらしい(笑)。猫は猫なりに心配して、階下の異変を私に知らせてくれたのだろうか。この日の朝、私は猫があまりに耳元でにゃーにゃーいうので5時に目が覚めてしまった。餌をねだって朝からうるさいのはいつものことだからたいして気にも留めずゆっくり起床したのだった。
ところが、母が床で固まっている。

こういうとき、私はまるで役に立てない。腰痛と背痛、両手首痛があるせいで、45キロの母を抱え上げたり支えたりできないのである。昨冬、検査に訪れた病院の待合室で、椅子から立ち上がりそこねた母を咄嗟に支えて腰にドカーンときた。私の腰痛歴は高校1年生のときからなのでもうほぼ35年のベテランであり、腰に負担のかからないような動作で日々生きておるゆえ、ふだんはなにごともないように振る舞っているのだが、突発的な事象に遭遇したり姿勢を変えずにいることを長時間強いられたりすると激痛に見舞われ、とたんにアカンタレな体になってしまう。と言うと、そうした事態は稀なことなのだなと思われるかもしれないが実は毎日そうなのである。「姿勢を変えずに長時間」には就寝も含まれる。だから毎朝激痛と闘いながら起床するのだ。
そのようにとってもカワイソーな私の毎朝は、ゆっくりと少しずつ体を端から順に動かしながら体内の巡りを潤滑にしながらアイタタアイタタアイタタと呪文のようにぶつぶつつぶやきながら、始まる。
やっとふつうに動けるようになると起床、階下へ降り、洗濯と食事の仕度をはじめる。私は私で一日痛みなく無事に過ごすために用心に用心を重ねて慎重に寝起きしているありさまだというのに。
なのに、母が床で固まっている。

「どうしたん? 落ちたん?」
「なんや、知らんにゃけど、うまいこと立てへんかった」

母の左足が転倒のはずみなのか、お尻の下に敷かれていた。まずその左足を前へ出す。
「いたた」
左足は悪くないほうの足なので、大事に健康を保たなければならない。もしかしたら怪我したのでは、と思ったが、どうやら左足は無事のようだ。しかしこのままでは起きられないし、起こせない。なんとか自力で中腰くらいまでは上がってもらわないと、支えたくても重すぎる。
「トイレ行きたい」
状況を理解しているんだかいないんだか、希望だけははっきりおっしゃるのである。
ベッド下にはマットを敷いてある。キッチンマットみたいなやつだ。ちょうどそのうえで動けなくなっているので、マットの裏の滑り止めを引きはがし、母をマットに乗せた状態でマットごと引きずり、壁際へ寄せ、トイレ近くまで移動(トイレは寝室内にあるのだ)。壁には手すりがある。なんとかつかまり立ちができるように、手すりをつかませてみる。もう一方の手は歩行器のハンドルをもたせてみる。よいしょと立ち上がれないだろうか。
……全然ダメ。
母は両腕ともけっこう力があり、握力もしっかりある。両脚のへにょへにょ具合とは雲泥の差。しかし、母も自分の腕の力だけで体を持ち上げなくてはならない事態になるなんて想像していなかったであろう。
以前は、四つん這いの姿勢から何かにつかまることで起き上がることができた。しかし今は、その四つん這いの姿勢になるためのハードルはとてつもなく高い。手をいったん手すりから離して床につき、膝を立て腰を上げてみようとしたが、ダメ。大きく曲がった背骨のせいで体が傾き、傾くに任せて倒れてしまう。もう一度起こしてとにかくどこかをつかませ、わずかに浮いた脇に床に這いつくばった私が頭から突っ込んで全身の力で持ち上げてみる。重い。これで上体を起こせたが、今度は足を立たせなくてはならないが、上体を起こした姿勢を維持できないので、腿を上げ、膝を出し、足の裏で床を踏ん張る段階までいかないうちに倒れてしまう。そしてやり直し。パワーのない母も疲れるだろうが、私もへとへと。

そんな状態であっという間に7時になった。朝食の時間だ。用意はしたのだが、母が動けないままだ。途方に暮れていると、
「おはようございまーす」
大工さんが来た! 救世主!
我が家は今部分的に工事中。7時過ぎから5時過ぎまで大工さんが作業をしに来る。この日は、大工仕事の部分が終了する予定日だ。はりきって仕事に取りかかろうとする大工さんに「あのーすみませんがちょっと手伝ってもらえます?」

床で動けなくなっている母を、大工さんはせーの、はいっと起こしてくれた。ああやはり殿方の馬力は桁違い。感謝。
なんとか立つことのできた母だが、歩行器につかまっても、歩けない。しかし歩く以外には移動方法がない。2、3センチずつ、歩くというより足を交互に前へ出す。手すりにへばりつきながらようやくトイレへ。
トイレから立ち上がるのにも時間を要し、トイレから出て再びベッドサイドへ戻って着替えるのも、いつもの倍以上の時間がかかった。転倒から起き上がるまでの間にエネルギーをすべて費やしてしまったかのように、母の動きは前日までと打って変わって鈍かった。
ようやく食卓に着いたら、8時を過ぎていた。

デイサービスに電話をし、送迎時間を少し遅らせてもらうように頼んだ。

週に2回、9時前に出て3時頃帰る母の通所に合わせて、私は外出のスケジュールを立てている。この日も10時から2時半まで3件のアポを詰めて入れていた。だが母の仕度が進まない。9時45分、ようやくデイの車に乗せることができた。私はアポ先に電話をし、約束の時間に遅れることを告げた。まったく大わらわの朝だったが、デイヘ行ってくれれば職員さんたちの目があるのでひと安心である。

と、思っていたのだが、甘かった。
3件めのアポを終え、帰路に着こうとすると電話が鳴った。デイサービスセンターの主任さんだった。熱がありますがお宅までお送りしますか、それともお医者さんに直行もできますが、という内容だった。かかりつけ医は診察時間外だ。自宅までひとまず送り届けてくれと答える。
帰宅して待っているとほどなくデイの車が到着。主任さんが付き添って家の中まで入り、ダイニングの椅子に座らせてくれた。
「来所時もお熱があって、そのあとどんどん高くなって」
「すみませんでした。朝、何度も体を抱えたけど、熱っぽさはなかったので……。食事はしましたか?」
「主食は半分くらい、おかずは7割、8割くらい食べはりました」
「そうですか」
「お元気がないので……横になりましょうかと声をかけても絶対嫌やと言わはりまして」
毎回、体操やゲーム、クイズ遊びなどレクレーションがあるのだが、何にも参加せずソファに座ってぼーっとしていたそうだ。

少し落ち着いてから検温すると38.7度。
以前外科でもらった頓服薬をとりあえず飲ませることにする。
「寝なあかんよ」
「そうか、しゃあないな」
寝室まで長い道のりを少しずつ進む。
トイレまで長い道のりを少しずつ進む。
ベッドに座り、着替えるのが大仕事。
着替えて、ベッドに横たわるのも大仕事。

3時40分。母はすぐ眠った。派手ないびきが聞こえる。

2014年10月8日水曜日

"Je ne comprends pas pourquoi je suis blessé la tête."

ある水曜日の朝。
母はいつもの水曜日と同じようにリハビリデイサービスヘ行くため身支度をしていた。夏の間はTシャツとズボンという軽い服装そのままで出かけられたが、朝夕少し涼しくなってきていたので、一枚羽織りものを取り出して、歩行器にかばんと一緒に乗せてダイニングまで歩いてきた。その姿は、台所の流しで食器洗いをしていた私の視界の隅っこに入っていた。

次の瞬間、ギギッと車輪と床が擦れる音(歩行器をブレーキをかけたまま引きずった時の音)がして、振り向いたら母の体が今まさに床に倒れようとしていたところだった。わああああ、危ない!

ドッタアアアアアアッッッ……

ものすごい音がした。母はよく転倒するが、これまでになくパンチの効いた音だった。腰の骨が折れたぞ。私は咄嗟にそう思った。母の体はお尻から床に落ち、落ちた勢いで体は仰向けに寝そべるような恰好になった。自力で起き上がろうともがく母に近寄り、怪我してるかもしれんから無理に動いたらアカン、と言い終わらないうちに私はええっ何これなになにどうしたのっと叫んでいた。
「なんえ? なんかあんの?」
母はきょとんとして私の顔を見ている。
「ばあちゃん、頭から血が出てきたよ、今、頭打った? そうは見えへんかったけど」
「打ってへん」
手を伸ばしてティッシュを数枚引き出し、前頭部を押さえた。どうしたんどうしたんと娘が駆け寄る。「すごい音、したなあ。トイレまで聞こえてたで。うわ、やばいこの血、さっきの音、頭?」
「いや、頭は打ったはらへんと思う。なんでかわからへん、どこかに当たったんやろけど……とにかく電話するし、ちょっと支えてて」
私は救急車を呼び、リハビリデイサービスに欠席の電話をした。ほどなく救急車が到着し、隊員のみなさんがてきぱきと処置をし、搬送先を手配してくれた。

「えーと、このかたお名前は。おいくつですか。ここにおひとりでお住まいですかね、あなたヘルパーさん?」
「へ、ヘルパー? さっき母が転倒して怪我をしたと電話でいいましたけど」
「え? あ、そう、娘さんですか。ご家族と住まわれてるんですか、ああそうですか」

失礼なやつだ、と思いながら、隊員のセリフからは独居老人の多さが窺えるいっぽう、ちゃんと家族と一緒に住んでるお年寄りがなんで家の中でコケるんだよ、みたいな非難めいた色を感じ、それに反論できない自分を発見したりする。

勤めを辞めて家に居ることにしたのは、母から目を離さないためである。しかし、だからといって1秒も目をそらさず見続けることなんてできない。私は今すべての家事をしている。台所は対面式ではないので炊事や洗い物をしているときは母に背を向ける。洗濯機も裏にあるし、物干しは屋上だ。母は1階で、私は2階で就寝する。
そうした、母から目を離すわずかな時間の間に母は転倒したり椅子からずり落ちたりベッドから転落したりする。以前は杖を持ち、今は歩行器にすがって歩いている。母の部屋にもトイレにも浴室にも手すりがある。それなのに、その杖や歩行器のハンドルや手すりを掴み損ねて転倒されては、これ以上打つ手がないではないか。

この日の朝の転倒は、立ったまま上着を羽織ろうとしたことが原因だった。
立ったまま服を着る。つまり、服を持ち、袖を通すという動作は、どこか手すりを掴んでいたり、歩行器のハンドルを持ちながら、ではできない。両手がフリーになる必要がある。すなわち、二本足で「自立」していなければならない。
母は、二本足で自立できない。
何度も痛い目をして、じゅうぶんわかっているはずなのに、いまなお母はつい両手を離したり、手すりやハンドルを握り損ねて「フリーハンド」状態になっては転倒する。
なぜ、何も掴まずに立っていようなどと思うのか、不思議でならないが、「かつてできていたはずのことができなくなってしまう」ことを自覚する難しさは、おそらく私たち「若造」の想像の域を超えているのだろう。母は明らかに、戸惑っている。自分の活動領域が急速に狭まり、日に日に自由の利かなくなる体に退化していることに。その老化、あるいは病気の進行の速度に、理解が追いつかないのだ。

Mちゃんの可愛い赤ちゃんを見て、漬物屋のおかみさんとしばし談笑して、ちょっぴり活力のおすそ分けをしてもらったせいか、元気な振る舞いを見せてくれるのはいいのだが、調子に乗って「以前のように」動くと思わぬ落とし穴に落ちてしまう。今回はその悪しき一例と言っていい。それでなくても、リハビリデイサービスの日の朝は毎回どことなく「今日もはりきって行きましょう!」的な、母なりにハイテンション気味なのが感じられるし。
というふうに、いくつかの「活力アップ要素」が働いて無謀にも両手を離して二本足で立つという行動に出て、転んじゃったわけである。

「なんで頭を怪我したんやろ。お尻はキツう打ったけど、頭は全然打ってへん。何で頭から血が出たんやろ」
母はいつまでもつぶやいていた。同感。今回の怪我は謎だ。我が家のどこかにミステリーゾーンがあるのか、どこかにちっちゃい小悪魔さんが棲んでいるのか。

幸い怪我は大事に至らなかったが、一瞬大騒ぎをした。
救急車などが我が家の前に停まったので、お向かい、お隣をはじめ町内会の面々が取り囲んで騒然としていた。みなさん、お騒がせしてすみません。

2014年9月29日月曜日

"Ce n'est pas évident, voir un bébé, mais il est toujours si beau, le bébé."

今月初め、予定日より一日早く、Mちゃんに男の子が誕生した。3000グラムを超える大きな赤ちゃんだ。比較的安産で、イタタ、と言ってる間に生まれたとな。
めでたしめでたし。

さて、Mちゃん夫婦の新居は東海地方なのだが、今回は里帰り出産をしたのである。Mちゃんが選んだ産院はウチの近所。私の足なら歩いて5分、信号待ちに遇ったらプラス1分くらいかな。古くからあるので地域では馴染みの産院である。母もその名前をよく知っている。だから「生まれたら、見にいこな」と、Mちゃんが大きなお腹を抱えてウチを訪問してくれたときからそれはそれは楽しみにしていた。

誕生の一報を聞いて私たちはさっそくMちゃんを訪ねる段取りをした。母は二つ上の実姉も誘うという。
「そんなら早めにいうて、お祝いとか打ち合わせしといたほうがええんちゃうの」
「そやなあ。姉さんに電話するわ」
と言い終わるやいなや母は電話のそばへ行くため腰を上げようと何回もトライしようやく電話機にたどり着き、そらんじている伯母の番号を押した。何度も同じフレーズが母の口から繰り返されて、ようやく話がまとまったらしい。
「明日、10時にウチへ誘いに来るて」

伯母は母より年が上で過去に大病も患ったのに、背筋は伸びて足もしっかりしていて、母と一緒にいると母が伯母の十歳上の姉みたいに見える。ところが若干物忘れが激しい。ここ何年かの間に不幸が何度もあったので、親族どうし会う機会が多かったが、母の兄弟姉妹たちは皆頑健でしゃきっとしているように見え、その実、やはり頭は母がいちばんしっかりしているということを、私は幾度となく確認した。いや、もちろんそうでないと困るが、動かないで日がな一日ボサーと座っている母にボケの兆しはなく、お稽古事に行ったり畑仕事を続けたり写経に通ったりしている母の兄や姉は、どうも会話がかみ合わなかったり、伝言が伝わらなかったり、昨日と同じ話を今日もしたり、といささか心もとないのである。

翌日、10時前になったので母はそろそろと玄関口のほうへ動き始めた。伯母がきたらすぐに出られるように。しかし10時を少し過ぎた頃電話が鳴った。伯母だった。
「お祝いてなあ、やっぱり午前中に行かなあかんやろか」
「え? 伯母ちゃん、今日来れへんようになったん?」
「いや、そうやないけど、まだこれから用意するし」
「そうなん? ウチのお母ちゃん10時に約束したて言うたはったえ」
「あ、そう? 10時て。今何時……10時まわってるなあ」
「待ってるから用意できたら来て。とにかく母に代わるし、そう言うてくれる?」
といって母に受話器を渡した。
「あんた、どないしてんの……待ってるえ……11時半までに来れへんか? そうか、ほな待ってるさかい来てや」

子機を私に渡しながら「11時に行けるっていわはんねん、けど、私は無理やと思うねん」とつぶやく母。
「ほな、気長に待ってたげよ。産院はすぐそこやし。11時に行くって伯母ちゃんが言わはったんやったら来ゃはるやろ」
と私は応じたが、11時を10分ほど過ぎたあたりから母がぶつくさと文句を言い出した。
「ほんまに姉さん、何したはんにゃろ」
「11時に来るのなんか無理やってさっき自分で言うてたやん、予想してたとおりやん」
「言うてたけど、それでも来ゃはるかなと期待したのに」
11時20分。
「もうほんまに、何してんの」
「これからぜったい姉さん誘わへんわ」
「いいかげんにしてほしいわ」
怒り心頭である(笑)。
しかしいくらなんでもそろそろ到着だろうと思い、私は外出の用意の仕上げにかかった。
11時半を2分ほど過ぎて、伯母が来た。「ごめんごめんー」
まあ、なんつーか、よかったよかった。というわけで3人で出かけた。

しかしほんとうにたいへんだったのはここからである。

母の足だと15分はかかるかな、と思っていたら25分かかった。近所とはいえ、その産院はいつもは歩かない方角にあり、道に馴染んでいないので、思わぬ段差や突起物に遭遇しやしないかと慎重に歩を進めざるをえなかったことも理由のひとつであるが、とにかく足の力の衰弱は甚だしい。リハビリデイサービスも、まったく効果なしである。

ようやくたどり着いた産院は、玄関口に高い高い石段があった。これでは手押し車は役に立たない。伯母と二人掛かりで母の足を段に乗せ体を引き上げる。ようやくドアを通過すると今度は「スリッパにお履き替えください」の札が。2足制だとぉ〜? 母は立って靴を脱ぎスリッパに履き替えるなんて芸当はできないのだ。
「すみません、椅子を貸してください」
受付には数人の女性がいて、私たちが入るのを見守っていたようだが、様子を見て声をかけるとか手伝おうとかしに来いよ、と私は内心あきれ果てていた。しかし当然かもしれない。ここは産婦人科医院だ。高齢者の来るところではない。職員も気が利かないのだ。
ようやく、ウチの母が相当に動作に難儀なことが伝わったのか、椅子を持ってきた女性が「申し訳ないんですけど、エレベータはあちらの奥です」と待合室の向こう側を指さした。そして「ここも昇っていただかないと……不便なつくりですみません」と待合室手前の3段ほどの小階段を指し示した。私と伯母は母の両脇を抱えて昇らせた。
「はあ、ひと騒動やなあ。かんにんえ、私のためになあ」
すまなそうな顔で姉に詫びる母。さっき怒りまくってたのが嘘のようだ。ま、これでおあいこだ。
それにしても、入口の大きな石段といい、室内のあちこちにある段差といい、ひとつ間違えれば妊婦さんだって転倒の恐れはある。この産院、建物のつくりはいささか前時代的だ。これだと遠からず妊婦も来なくなるんじゃないかと思うけれども……。

そしてようやくようやくようやく(笑)たどり着いたMちゃんの部屋。赤ちゃんも小さなベッドに眠っていた。
「わあ、ちっちゃーい! 可愛い〜〜」オババ3人で歓声を上げる。
Mちゃんのひとまわり年上のダンナもいた。私は笑いがこみ上げるのをなんとか押さえながら「初めまして」と簡単に挨拶をした。ダンナは腰の低い、好感の持てる態度だったが、知らない人ばかりが来てお祝いを置いていったりするのにどう対処したらいいのかわからないふうだった。ちゃんと挨拶しないといけないんだけど何をなんて言おう、みたいな顔をして、少々うろたえているふうだったがでも嫁のベッドの端にちょこんと座り、たいへんリラックスしたふうでもあった。ま、オババ3人にとっては彼のことはこの際どうでもいいのであった。

私が代表で、赤子を抱っこさせていただく。
ちっちゃい。軽い。こわれそうだ。私の腕の中で、しきりに顔をくちゃくちゃさせて、突然賑やかになった周囲の音が耳障りなのだろうか、でも目はなかなか開かず閉じたまま、しかし口は何度も大きく開けてあくびをした。
「ごめんなあ、おねむやのに。おばちゃんうるさいなあ」
冬に友人に子が生まれ、また別の、こことは違ってたいへん新しい産院を訪ねたときも、抱っこしてしきりに話しかける私のことなど全然見ずに、赤子は顔いっぱいに口を広げてあくびをしていた。そうそう、子どもは寝るのが仕事。寝てても、顔をくしゃくしゃにしても、あくびばかりしていても、赤ちゃんって美しい。命の発露そのもの。真っ赤な小猿みたいだけど、光り輝いているのだ。

Mちゃんを訪ねるまでの長い長い旅路(笑)の話を少しだけ披露した。
「ほんまになあ、私がこんな足やから、たいがいやないわ、ここまで来るの。赤ちゃん見に来るのってひと仕事やわ」
「ありがとうございます、おばちゃん、そんなたいへんやのに来てもろて」
「それでもそないしてでも、来る値打ちあるえ。赤ちゃんはええわあ。可愛いわ、ほんまに可愛いわ」と母。
「元気、もらえるわ」と伯母。

産院をあとにし、伯母と別れたあと、商店街の漬け物屋さんへ足をのばした。疲れただろうと思ったが、お漬け物を買いたがっていたので尋ねると、「行く行く」という。
漬け物屋さんのおかみさんは母のおしゃべり友達で、毎日のように買い物に来ていた頃は必ず足を止め、子育てのこと、姑のこと、実の親兄弟のことなどふたりで愚痴の大売り出しをし合ったそうだ。今、商店街ヘ行くのは母にとってあまりに「遠足」だが、漬け物屋さんにはときどき連れていくことにしている。
「姪の娘に赤ちゃんが生まれて、見てきたんえ」
「そらええわあ。できたてほやほやや。生命力、もらわんとなあ」

ほんとうに、Mちゃんの赤ちゃんのおかげで、母には少し活力がついたように見えた。
しかしそれから間もなく、ちょっぴり活気づいたことが徒になる出来事が起きてしまう。
まったく、物事はうまくいかないようにできているらしい。

2014年8月22日金曜日

"Elle était si belle, vraiment, comme si c'était une fée!"

従姉の娘のMちゃんが、大きなお腹を抱えて訪ねてくれた。
来月7日が予定日だ。

Mちゃんは私が高校2年生の時に生まれた。翌年にはその妹、Yちゃんも生まれた。すでに高校生活に飽き飽きしていた私は宝石のような赤子の誕生に宝くじにでも当たったかのように有頂天になり、週末を待ちかねて従姉の家を訪ね、ひとしきり赤ん坊の相手をして遊んだ。従姉はとても美人で、ダンナも昭和な色男で(笑)、当然のことながら娘たちは二人とも器量よしだ。遊びに行くたび愛らしさが増し、目の中に入れても痛くないとはこのことだぞ、とこれじゃあまるで初孫を見守るジイジ・バアバの心境だけど、ほんとうに、その成長に立ち会える幸せを存分に味わった。

そのMちゃんが、お母さんになる。なんだか感無量だ。

先に結婚したのはYちゃんだった。年下のダーリンはYちゃんにメロメロで(笑)献身の限りを尽くしているらしい(笑)。「ほんま、ええ婿殿やけど、ちょっと痛々しいな……と思う時、あるわ。ははは」と笑うのは従姉のダンナ。そんなYちゃん夫婦にはまだ子どもがなく、バリバリ働いていてまったく結婚のケの字もなさそうだったMちゃんが突如結婚すると言ったと思ったら妊娠も判明。Yちゃん夫婦による初孫のプレゼントを心待ちにしていた従姉夫婦はさぞかし仰天しただろうな、どんな顔してMちゃんから話を聞いたのだろう、と私は半ば面白がりながら、事の顛末を聞いた。
Mちゃんが30代半ばにさしかかり、妊娠・出産のリスクが高まることが従姉にとってはいちばんの気がかりだったという。「あんまり口うるそう言いとうなかったけど、子どもは早よ産んだほうがええねん、好きな人がいたら仕事は二の次にして結婚しい、って何回言うたかわからんわ。ほな突然両方来た。もう、かなんわ」と諦め顔で話す従姉。Mちゃんの伴侶となるのはひとまわり年上の働き盛りの40代。「お互いに前から知り合ってたけど、そういう仲になったんはつい最近で、つきあい始めてすぐ結婚する気になったんやて」(従姉)
ふうん。人の縁ってわからないものだねえ。


この従姉は私のことを小さい頃から可愛がってくれ、まだひとりでは行けないところによく連れていってくれた。ゴジラ対モスラ、とかではない恋愛ものの洋画を初めて観にいったのは従姉とだった。ネックレスとか、ハンドバッグとか、ちょっと大人な店には従姉に連れていってもらった。私の母は、自分の兄嫁にあたるこの従姉の母親にたいへんよくしてもらっていたので、当然この従姉のことも可愛がり、また従姉が私を可愛がってくれるのでとても喜んでいた。いつも従姉にお金を預けて私に似合うものを選んでやってと、すこし小遣いも渡して、とても頼りにしていた。私にとっても母にとっても「大好きなお姉さん」だった従姉は、なんと22歳で嫁にいってしまった。披露宴に出た母が帰宅するなり、「この世の中にあんな可愛らしい花嫁さんやはるやろか。ほんまにきれいやった。可愛らしかった。T君(=昭和的美男子のダンナ)も凛々しいてタキシードよう似合うて、男前やったわ、お人形さんみたいな新郎新婦やったわ、ホンマにきれいなもん見せてもろたわ」と絶賛の嵐だったのを思い出す。
私以上に母もMちゃんYちゃん姉妹を可愛がった。年頃になった二人をいつも心配していた。Yちゃんの結婚には大喜びしたし、今度のMちゃんの慶事にも顔をほころばせた。早くもおめでただと聞いても動じることなく「そら、なによりやんか、よかったよかった」。だって自分の娘はいわゆる未婚の母だもんね、デキ婚がどないしたん、てなもんですわ(笑)。

弟の反応が面白かった。弟も、私に負けず劣らず、玉のようなM姫を舐めるように可愛がったクチである。
「Mちゃん結婚決まったんやて」
「ほお。そら、よかった。エエ歳やったしなあ、うん」
「ほんで、すでにおめでたやって」
「なにっ」
「9月に生まれんねんて」
「……たくもう」
「お相手やけどな」
「おう」
「ひとまわり年上やて」
「……ぬぁにっっっ……」
「バツイチやて」
「(無言)」
「でも前の奥さんとの間には子どもなかってんて」
「(無言)」
「まあいろいろあるけど、きまってよかったやんなあ」
「……許さん」
「へ?」
「許さんぞ、そいつ。どこのおっさんやねん。ワシと三つほどしか違わへんやんけ」
「アンタこの際関係ないやん(笑)」
「なんつうこっちゃねん。ほかの誰がどんな男の嫁になってもええけどな、なんでよりによってMがそんな目に遭わなあかんねん」
「アンタ親父か」
「ああもう、まったくもう」
「恋愛結婚やしな、いちおう。人身売買ちゃうし」
「許さんっ」

というわけで、親族一同から玉のように愛でられたMちゃんは、晴れてもうすぐ母になるのだ。男の子だとわかっているらしいが、きっと、Mちゃんの父に似て昭和的美男子なクラシックイケメンが誕生するのだ。楽しみだなあ。

「赤ちゃん見せにきてや、ってMちゃんにいうといてな。あんたもたいへんやけど、また一緒にウチ来てな」
Mちゃんが訪ねてくれた日はデイサービスの日だったので、会い損ねた母は従姉に電話をして大事にしいや、大事にしいて言うてや、と繰り返していた。
子どもが生まれるって、本当に素敵なことだ。
素晴しいことだ。
全身全霊で、祝いたい。


2014年7月6日日曜日

Les frères, les sœurs, les enfants

「占出さんが山一番やて。ほな、ことしはみなお産が軽うなるわ」
夕刊の一面を見て母がつぶやいた。

祇園祭の神事が7月1日から始まっている。
2日には巡行順を決めるくじ取り式があり、「占出山」(うらでやま)が山一番を引いた。
安産祈願の神を祀っているとして、古来高貴な身分の女性たちの信仰を集めたとして人気の山である。氏子の与るご利益は多々あれど、母の言うように、その年に一番を引いた山からはとりわけ恩恵をたくさん受けるのである。だから、妊婦さんはみな「ことしはなんにも心配いらへんわ」(母)。
だといいけどな。

今朝も住宅火災で幼児が焼け死ぬというニュースがあったが、高齢者人口が増えるというニュースのいっぽう、小さな命が不条理なかたちで奪われる例があとを断たない。書店や図書館に行くと、「イケてるイクメン」「愛のパパ料理」といった、近頃とみに家事育児参加の著しい男子たちを取材した雑誌や、あるいは男子自身によるハウツー本、料理本などがずらりと並ぶ。最近はお弁当本が人気のようだ。もう何年も前から、家族で連れだって歩いている時に子どもをだっこしたりベビーカーを押したりする男の姿は、妻と並んで歩くという形でならあったが、最近よく目にするのは父親だけが子連れで歩いているというパターンだ。幼い子を胸に抱いてその子とだけの会話の世界にとっぷり浸かっている父。ひとりを片腕に抱き、もうひとりの手をつなぎ、歌を口ずさみながら散歩する父。ダブルサイズのベビーカーに双児の赤ん坊を乗せ、そばをちょろちょろする上の子をたしなめながら歩く父。そんな父子の様子を見かけることも珍しくなくなった。
こんなに夫が家事や育児を積極的にしてくれるのなら、妻は存分にキャリアを描くことができ、不安なく第一子に続いて第二子、第三子と産もうという気に……なるというほど、世の中は単純で生易しくはない。ある家庭では実現可能なことが、別の家庭ではとうてい不可能であったり、夫婦で役割を分担して相互の負担を軽減する努力をしていたとしても、肝腎の妊娠にたどりつかない、あるいは、予算が立たなくて諦める。ただ、欲しくても子どもを持てない夫婦は昔からいたが、そもそも子どもを欲しくない、という夫婦または単身者が増えているという。

デイサービスで知り合う高齢者仲間とはついつい身の上話や若い頃の話になるという。母は「若手」なので「アンタ、うちの末の妹と同い年やわあ」と90代の「おねえさま」からいわれたりするらしい。母の世代あたりは少なくとも兄弟姉妹が5人以上いた。母は8人(内2人は早世)兄弟姉妹の末っ子だ。嫁入り支度をしてくれたのは十以上も年の離れた兄嫁たちだったと言って笑う。

私と弟の間に、ほんとうはもうひとり、母は身ごもったそうだ。流れてしまったが、母は今でも彼岸の墓参のたびに、水子供養を忘れない。しかし、流れた赤子のことじたいを口にすることはあまりなかった。同様の経験をもつ女性がデイ仲間にいたのだろうか。子どもの話をするうちに水子のことまで及んだのだろうか。いつだったかデイから帰宅して、昔流れた赤子のことばかりをつぶやき続けた日があった。
「かわいそうなことした」
「生まれてたらどんな子になってたやろ」

高慢で傲慢で偏見の強い姉と、理屈っぽく説教臭くこれまた偏見の強い弟に挟まれて、きっとストレス耐性の高い図太い人間に育ったのではないか。
いや、しかし、生まれてこなくて正解だったかも(笑)

「生まれとうても生まれてこれへん子もいるのに」
悲しいニュースを見聞きするたび母が溜め息をつく。母はわりと世間に無関心で、やいのやいのとみなが大騒ぎしているネタもほぼ知らない。小さな事件などは新聞記事を追っているはずなのにほとんど頭に入っていない。今うちにはラジオしかないが、テレビがあった頃からそんな調子だった。しかし、いま、同じような時代を生きてきたご婦人たちとの会話を通じて昔の記憶が掘り起こされている。自分の経験とリンクするような事件や話題には、いつまでもいつまでも、もつれてほどけない糸をもてあそぶようにして、食いついている。

占出さんのご利益が、すべてのプレママさんに行き渡るといいな。
そして、子どもをもちたい人がためらいなくもつことができ、子どもをもたないひとも後ろめたさなど感じないですむように、山鉾の神さんによう拝まんとあかんね。


2014年6月29日日曜日

"C'est peut-être grâce aux gâteaux que tu fais pour moi."

先週、糖尿病の主治医を訪れ、月イチの定期検診を受けた。
血液検査と尿検査(尿は自宅採取を持参)。検査業者に回して得られる詳細な結果は次回にしかわからないが、ヘモグロビンA1c(=HbA1c 〈NGSP〉%)と血糖値は即時に数値が出る。
血液採取後、少し待機。
改めて呼ばれて診察室に入る。

「下がりました。下がりましたよ!」
開口一番、弾んだ声で主治医が母を迎えた。
昨秋以降8か月の間ずっと下がらなかった数値がやっと下がったのである。
この日の測定で、8%以上が続いていたHbA1cが7%台に下がり、楽に200以上、250以上を出していた血糖値は180だった。
測定器の気まぐれか故障じゃないのか。冗談ではなく私はそう思った。精確な値だとしたら、食生活改善の効果というのはこれほどまでにゆっくりとしか目に見えてこないものなんだな。
8か月以前はどうだったのかというと、6・7・8月と少し数値が改善した時期があったのだ。なぜその時期下がっていたのかというと、これは推測だが、4〜5月の1か月の入院期間、母は病院のいわゆる病院食、しかも糖尿病食をいただいていたので、その効果が絶大だったのである。メニューだけ見ると普通の食事なのだが、味つけや調味料の使いかた、そして全体の分量がとてつもなく「控えめ」なのである。ただ母は、朝・昼・晩の食事そのものは前から量は多くないので、病院での食事に不平はいわなかった。
母の糖尿は今始まった話ではないし、娘も糖質制限をしていたので、我が家の食事はここ数年、いたって低カロリー低糖質、超ヘルシーだったので、母は家での食事とのギャップはさほど感じなかったのではないだろうか。

ただし、である。母の場合、問題は間食である。しかも、その摂りかたが凄まじかったのである。

ここ2〜3年、私も弟たちも、たまには母にもデザートを、と思って糖質オフの菓子を買ってきたり、材料を考慮して手づくりしたり、と工夫しておやつを与えてきたのだが、とにかくコテコテに甘いものを好む人なので、私たちが用意するものではもの足りなかったのであろう。頻繁にご近所の和菓子屋に出かけては、あるいは最寄りのコンビニに通っては、あんこたっぷりのまんじゅうとかカスタードとホイップのダブルシュークリームとか、そんな、日頃のヘルシー食生活を「御破算」に帰すような、おやつをお腹いっぱいに食べる習慣がいつの間にかついていたのである。そのせいで、母の血糖値検査の結果はすこぶる悪かった。

ところが、入院中は間食もなにも、3度の糖尿病食以外にはない。検査があるとその前夜や朝は食事抜きだ。母は、かなりの欠乏感を覚えていたに違いない。だが幸いにも、そんな修行のような日々を送った影響は大きかった。退院後再びジャンクデザートに溺れる毎日に戻っても、「健康」方向に振れた針はしばらくそこに留まっていてくれたのだ。退院後再開したかかりつけ医のもとでの月イチ血液検査では、入院以前のあれはなんだったんだと思うほど、良好な数値が3度ほど続いた。
しかし、そこまでだった。秋口からHbA1c、血糖値ともに上昇を示し、血糖を抑える薬を変えても増やしても、効果は出ないのであった。再び食べ始めたジャンクデザートの影響に違いなかった。
「ご飯をもう少し減らしましょうか」「おやつはやめてくださいね」
あまり言いたくないんですけどねという表情をしたドクターが悲しげに忠告する。月イチ受診の慣例になってしまっていた。



4月以降、私が勤めを辞めて家に居るようになり、母の間食も原則手づくりしている。
大豆粉やおからをメインにしたマフィンやケーキ、ヨーグルトと煮リンゴ、豆腐の生クリームを添えたそば粉のパンケーキ、といった具合である。
甘いものがなにより好きな母にはもの足りないことこの上ないはずだ。もっと甘いものを食べたい食べたい食べたいと日々念じて生きているはずだ(笑)。しかし、ようやく数値が下がったと聞いて嬉しくないはずがない。味気ないおやつに我慢してきた甲斐があったと思ったかどうか。

「あんたがいつもつくってくれるおやつのおかげやなあ」

会計を待つ間、待合室で母がぽつりといった。
そうかもしれないが、それだけではない。
しかし、母が真面目にそう思ってくれるのなら嬉しいし、糖分たっぷりの市販のお菓子なんか食べずに私のつくるものだけを食べていようと「改心」してくれるならいい。

たぶん、リハビリデイサービスに通い始めたことも要因のひとつだ。
そして、おやつよりも三度の食事の内容のほうが大きいと思う。主食から徹底的に精白したものを除いている。おまけに大根のみじん切りをご飯に加えてかさを増している。母は1/2膳程度しか食べないが、その半分は玄米、1/4はマンナンご飯、1/4は大根である。
大根を加えるようになったのは今年に入ってからだが、玄米とマンナンご飯の混合主食はもう2年続けている。ようやく功を奏してきたということかもしれない。とにかく、母の体は反応が遅い。イラつかず根気づよく継続するのみ。おやつの力で今後も血糖値を下げていこう(笑)。


2014年6月18日水曜日

"Je ne sais pas si j'étais trop fatiguée."

先月末のこと。デイサービスのスタッフから「たいへんお熱が高いのですが」と電話がかかった。

デイサービスヘ行くと、着いてすぐにまずヴァイタルチェックがある。体温、血圧、脈拍を測る。母はいつも体温が高めである。平熱が37度なんです、ということにしているが、ほんとうは平熱は36度台のはずだ。送迎されているとはいえデイサービスへ到着するまでの運動量は母にとって長距離を走ったに等しいので、有酸素運動過多によって体温も上がっていると思われるのである。
デイの連絡帳にはヴァイタルチェックが記録されていて、いつも母は37度あたりを記録されている。

だが、この日、ヴァイタルチェックで39度を超えているという。
「え? なんででしょうね。様子はどうですか」
「ご様子はお元気なんですけど……念のため2回は測りましたが、やっぱり39度を超えてまして」

デイサービスの送迎車は毎回8時50分に我が家へ到着する。毎回母は10分くらい前から上がり框に座ってスタッフが来るのを待つ。この日もいつものように準備をして、機嫌よく送迎車に乗って出かけたのだったが。
保育園と同じで、病気になったら預かってはもらえない(笑)。ほかの利用者にうつるのを防がなくてはいけないし、家族が困るのはわかっているけど置いてはおけないのである。違うのは、介護サービスは施設側が送り届けてくれることである。
「お医者さんに行かれるのでしたら、そこまでお送りしますよ」
それなら、とかかりつけ医の所在地を説明し、そこまで連れてきてもらうことにした。

まだ10時になっていなかった。母がデイへ出かける日に外出予定を寄せて集めて(笑)こなすのだが、この日の予定はすべてチャラになってしまった。参ったなあ、と思わず口をついて出た。
診療所ヘ行くと、デイの送迎車がちょうど到着したところだった。運転は朝迎えに来てくれた男性スタッフだった。
「すみません、お手間とりまして。せっかく迎えに来てもろたのに」
「いいえ、そういえば今朝はいつにもまして足許ふらついてるなあ、と思たんです」
「そうですか」
足がふらふらなのはいつものことだ。しかし、「いつも」とのほんのわずかな違いを察知できるのは、こうした第三者的な立場でありなおかつ恒常的に対象を見ている人ならでは、といっていいのだろう。同居しているから、いちばん近くにいるからすべて関知しているとは限らない。朝食の途中で何度も椅子からずり落ちそうになったなそういえば、と、「いつにもまして足許ふらついてる」というスタッフの言葉を聞いて初めて思い至ったが、ほんとうならそのときに私がなんか今日は様子がおかしいと気づくべきなんだろうし、ずり落ちそうになる母を数回にわたって支え起こしていながら体がいつもより熱いと気づくはずなんだろう。「近すぎる」と、肝腎な時に限って盲いてしまう。

糖尿病のかかりつけ医とは月イチ検診で会っている。母の病状はよくもなっていないが悪化もしていない。つまり安定しているので、血糖値検査と投薬調整だけで、実をいうとなんとなく受診の意味に疑問符を振りたくなることしばしばなんだが、つねづね診てもらっていないと、この日のように突発的な発熱とか病変とかがあった時に、やはり困るのであろう。「急に高い熱が出たんやねえ、どうしたんやろうねえ」と主治医はにこやかな表情で母に話しかけた。娘がかかっていた小児科医とおんなじだ、と思った。臨床医は優しい言葉と柔和な笑顔がつくれないと務まらない。よほど腕がいい場合を除いて、無愛想で乱暴な言葉遣いだと評判は地に落ち客(患者)の足は遠のく。この医師はそういう意味では申し分ない部類に入ると思うが、若干思い切りが悪いような気がする。躊躇しがちであったり、あるいは様子を見ようといって長期間結論を出さずにいたり、こうしよう、いややっぱりこうしようと指示や方針を変えたり……大なり小なりどんな医師にもある傾向だけど、過ぎると大事な時に判断を誤ってくれちゃいそうな嫌な予感に導かれる。

ま、それはそれとして。

主治医は「つい最近インフルエンザの患者さんもいたのでね、その可能性もあるし検査しましょう」「お年寄りは肺炎が怖いから胸のレントゲンも撮りましょう」あれも、これもと車検チェックシートを確認するみたいに急に高熱を出す原因をつぶしていった。つまり、母にはそのような予兆は見えていなかったし、月イチの検診結果はいつも穏やかであったから、急な発熱は外部因子によるはずと思ったに違いないのだった。

しかし私は、前夜からの母の様子、ここ数日の母の行動などを、記憶をたどりながら確かめていくうちに発熱の理由をつきとめた。インフルエンザに感染などするはずがない、私以外とはほとんど接触していないのだから。咳は出ていないし、呼吸もいたって健全であるから肺炎も考えられない。
発熱の原因は、母特有の気疲れと、体力の消耗だ。
5月、母にとっての大きなイベントがいくつかあった。

1)ショートステイを体験した。3泊4日。
2)リハビリデイサービスに通い始めた。
3)ご近所に慶事があったので、ある大安の日曜日、ご近所と誘い合わせてそのお宅を訪問しお祝いにした。
4)親戚内にも慶事があり、ある大安の土曜日、じぶんのきょうだいたちとその親戚を訪ね、お祝いした。

とくに(3)と(4)はたいへん非日常的なことなので、ずっとずっと以前から頻繁にその話題をもちだしてはどうしようこうしようああしようとひとりで問題提起してはひとりで議論しひとりで合点していた。5月の後半は気疲れMAXであったろう。
「たっぷり眠れば治る」と直感した。

主治医は解熱剤のほかに抗菌薬も出してくれたが、たぶん、ぐっすり寝れば熱は下がる。まあしかし、処方された薬はおとなしく全部服用しましょう。
予想どおり、その日の夕刻には母の体温は「平熱」の37度近くまで下がった。解熱剤の効果もあったと思うのだが、帰宅してすぐまず薬を飲み、少し横になりよし、という私の言葉にしたがってパジャマに着替えてベッドに横たわったとたん、ぐーぐーと眠りこけ、昼食の時間になっても起きないで眠り続けた。夕方5時を過ぎてようやく目を開いたので一度起きるように声をかけた。熱を測ると37.5度までさがっており、こしらえた卵粥をペロリとたいらげた。そのあとまた横になり、続いてごおおおおーーーといびきをかいて激しく眠りこけた。夜半に一度起きたときはさらに体温が下がっていた。このぶんだと明日はたぶん通常どおり動こうとするだろう、と私は思った。
翌朝、母はいつものとおりに起きて着替え、ダイニングまで歩き、いつもの椅子にてん、と座った。発熱でさらに体力を失ったようにも見えるが、横になっていた時間が長過ぎて、「体がおかしいなるわ」と感じ、これ以上寝るのは止めようと思ったらしい。

「疲れたんやねえ。たくさんせなあかんことあったし」
「疲れたんやろか」
「そうやで。ぎょうさん寝たら、熱下がったやん。疲労回復できたんや」
「疲れるようなことしたかいなあ」
「お出かけ、増えたし。お祝いごとで気いも遣たし」
「そんなことできつう疲れたんか……自分では全然わからへん、キツう疲れてたかどうやなんて」
「自分がしんどいのかどうかがわからんようになったら、人間おしまいやで(笑)」
「ほんまやなあ」

熱は下がったが、けっきょくこの週はデイサービスをすべて休んだ。加えて、やはり多少動きが鈍くなって諸動作が危なっかしい。そんなわけでほぼつきっきりでそばにいなくてはならなかった。特別に用事が増えたわけではなかったが、自由に動き回れなかったのは少々(かなり)キツかった。私も疲労を溜め込んで、週の終わりには相当バテていた(笑)。いまから対策練らないと、ヤバいな。

2014年5月27日火曜日

"Ça marche pas."

今月から母は週1回のペースで「リハビリデイサービス」なるものに通い始めた。

8時45分に送迎の車がくる。たいてい、車には先にひとりかふたり、老婦人が乗っている。みなさん80代とおぼしき貫禄で、しかし溌剌としてらっしゃる。
「おはようございます、よろしくお願いします」
新米で若手の母はいつもそう言って車に乗る。ひとりでは乗れないので、よいしょ、と乗せてもらう。というより、体を押しこんでもらうというほうが正しいかな。
リハビリではない普通のデイサービスセンターでも母は「若手」である。周囲は80代後半から100歳。母は昨秋の誕生日でようやく77歳になった。90代の老婦人がたに比べたらひとまわり以上も若いのである。「若いなあ、まだこれからやなあ」と、口々に羨ましがられるそうだ。しかし、そういった80代後半以上の、お年を召してすっかり貫禄十分な老婦人たちよりずっと、母は年老いて見える。
すっかり背中が曲がってしまい、それなりの衣装を着ければ間違いなく魔法使いのおばあさんになれる。後ろからグレーテルに押されて頭からかまどに突っ込んで焼け死んでしまう魔女。だからさー、背筋、がんばってのばそうよ、母ちゃん。

そのリハビリデイには、フロアいっぱいにスポーツジムばりの高性能トレーニングマシンが10機、並んでいる。アームなんとか、レッグなんとか、という名称がついている。機能的にはスポーツジムにあるものと同じだが、器械のデザインが異なる。白基調で、丸みのあるやさしいデザインだ。マシンに取り囲まれるように、休憩のための椅子が幾つも並べられている。一部の壁面には薄型の映像モニターがはり付けられていて、高齢者向け体操の映像がずっと流れている。その前に立ち、あるいは座って、体操をするお年寄りもいる。歩行練習用の平行バーもある。隅には簡易ベッドが置かれていて、マッサージを受ける人、疲れて横になる人、あるいは運動をする人など、多用途に使われているようだった。
各自が思い思いに運動をしているようにも見えるが、このリハビリデイでは全員が声を揃えて数をカウントするので、「みんなで一緒にトレーニング」しているのである。休憩している人も、声を出すように促される。声を出すということはお年寄りにとって大きなリハビリになるらしい。一年前から通所している普通のデイサービスでも、よく歌を歌うそうだ。それは昭和の懐メロのこともあれば、子どもの頃よく歌った遊び歌や、文部省唱歌のこともあると、母が言っていた。「ものすご歌の上手な人が、やはんねん、大きな声で、きれいに歌わはる」
リハビリデイでは歌は歌わないが、このように、ひとアクションごとに、エクササイズの終わりになるとスタッフが「さあ数えましょう!」とかけ声を上げ、全員で10数える。数えたら、マシンを交代。スタッフに手助けされながら次のマシンに進む。
利用者には、自分でさっさと次の器械に移り、自分で負荷の加減を決めてさっさと進めることのできる人もいる。母は、手すりなどしっかり握る箇所がなければ立ち座りもできないので、マシンへの移動もスタッフに抱きかかえられるようにして行う。足にせよ腕にせよ、自分の意のままにはほとんどならないので、マシンに座るのも、からだの部位をセットしてもらうのも、トレーニングのし始めも、スタッフ任せだ。

今月の第1週目は、初日ということで全部のマシンをこなしたそうである。母の場合、マシンをたくさん使ったとか、エクササイズを長時間やったとかそういうこと以前の、数分ごとにあっちからこっちへ移動し、立ったり座ったりする、ということだけで相当な運動量だ。ふだん、家では座ったきり、ほぼ動かないのだから。
それと、非常に気疲れの激しい人なので、初めての場所、知らない人、そうした環境にいるというだけで初舞台に立つ新米役者のように緊張していたであろう。そういう気疲れのために発熱することは、まだ母がバリバリ活動していたときから頻繁にあったことだ。
終了後、送迎の車に乗って、12時半に帰宅。ダイニングの椅子に、抜け殻のようになって座っていた(笑)。へろへろに疲れた、と背中が語っていた(笑)。それでも、昼食はしっかり食べた。やはり運動はいい、させるべきだ、と思った。

リハビリデイでもらった、施設ロゴ入りのミニトートバッグをどの利用者も持参しているそうだ。これからはこのかばんで持っていくねん。そして私の顔を見ながら「みんな、名前つけたはるねん」と言った。はいはい、ネームタグ、つくらしてもらいます、ハイ。


第2週目は、母の体の不具合に合わせて少しずつトレーニングプログラムをつくっていくそうで、いくつかのマシンを重点的に使ったらしい。私は、大腿部と腹筋の強化を希望すると連絡帳に記入しておいた。
今いちばん危ないのは、椅子に静かに座れないことだ。重力に任せて、落ちるように腰掛ける。柔らかい椅子ならいいが、かたい場所でも同じように腰を「下ろす」のではなく文字どおりドタッと「落とす」ので、腰の骨にヒビが入らないかとヒヤヒヤする。亡くなった女優の森光子さんが、高齢になってもスクワットを欠かさなかったそうだが、なるほどと思う。スクワットで鍛えるのは太ももと腹筋、そして足の裏全体で踏ん張る力だ。母にはすべて、無い。逆に言えば、これらが鍛えられて必要十分に筋力があれば、身のこなしも軽やかになるはずなのだ。
ドタッと落としたあとは、その腰を上げることができない。ウチにいる場合、テーブルを両手でがっしりとつかみ、テーブルにへばりつき、しがみつき、テーブルを持ち上げるんじゃないかと思うほどすごい力でもう一度縁をつかみ直し、テーブルに吸い付くようにして、腰を持ち上げる。
座るのは「落下」に近いので一瞬だが、立つのには、何分もかかる。
いや、時間はいくらかかってもかまわない。もう急ぐ理由などないのだから、今さら時間短縮は期待していない。ただ、今の状態だと、立つ・座る動作に費やすエネルギーがものすごく大きいのだ。だから、今、普段の生活でも、朝、ベッドから立つ。トイレの便座に座り、立つ。台所へ来て椅子に座る。立ってコーヒーを淹れる。また座る。……こんなことの繰り返しだけで、母は、昼過ぎにはもう燃料切れ状態になる。夕方になる前に、足がふらつくようになり、何かにつかまっていようと体を支えていようと、膝から崩れて、悪いときには転倒する。

2回目のリハビリデイから帰った母は、どことなく元気がなさそうであった。
疲れたのかどうかを尋ねたら、「そんな疲れてへん」という。体力的に疲れたのではなく、若干意気消沈していたのであった。
「ぜんぜん、できひんかった」
「何ができひんかったん? 難しいこと、やらされたん?」
「むずかしないけどな、わたしは体がしゃんとならへんし、ちゃんとできひんねん」
「そやけど、器械に座って、足乗せたり、腕ひっかけたりしたらええのやろ。そんなんかて向こうの人が手伝うてくれはるんやろ」
「ちゃんと座らしてもろてもな、わたしは背中が伸びひんし、すぐうつむいてしまうしな、ちゃんとした運動にならへん」
「運動になってへんとか、いわれたん?」
「いわれてへん。いわれてへんけど、ぜんぜんできてへんことは、わかるさかい」
しょぼ〜ん。
あらあら。

イキイキはつらつとエクササイズに励む要介護老人たちが多い中で、やはり少し気後れしてしまっているようだ。

しょうがないやんか。全部ちゃんとできるんやったらべつに行かんでもいいやんか。できひんし、できるようになるために行くんやろ。

「そやなあ」

施設スタッフがつくったらしきペーパーカーネーションが、トートバッグの持ち手近く、私がつけておいたネームタグにくるくると巻きつけられていた。きれいやん、これ。
「こないだ母の日やったし、いうて、つけてくれはってん」
ようやく顔がほころんだ。

2014年5月11日日曜日

Fête des mères

2014年5月11日、5月の第2日曜日。日本では、「母の日」である。
日本では、と書いたのはこの母の日というもの、世界各国で祝う日がずいぶんと異なる。……と思っていたんだが、たしかにいろいろあるけれどもけっきょく日本と同じ5月第2日曜日というのが多数派のようである。なーんだ。
フランスでは5月の最終日曜日だ。
フランスに住み始めてすぐスケジュールノートを買うと、5月の最後のほうに「Fête des mères」の記載があった。へーえ、と私はなぜか、その日が日曜日かどうかを確かめもせず(だって渡仏は6月だったから5月のページはほとんど関係なかった)、フランスではその日が毎年不動の母の日なのだと、しばらく思い込んでいた。国によって違うんだよ母の日って〜などと吹聴したかもしれん……はずかしー。何日だったかなあ、その日。5月31日だったような気がする。そうだ、きっとそうだった。「フランスでは5月31日が母の日なんだよ!」って、私は何人に言ってしまっただろうか(笑)。

母のない子も多いだろうに、母、母と数日前から世の中がうるさいうるさい。

母は偉大かもしれないが、人間も雌である以上子を産むのが自然のなりわいであって、もちろん人間だからこそ産まない選択もあり、産まないからどうこう言われる筋合いもないし、つまり、母であるかどうかをそんなにやいのやいの騒ぐのってもう止めたらどうよ、と私は思わなくもないんだがどうだろうか。クリスマスは経済界の陰謀だしセントヴァレンタインはチョコレート屋の陰謀だし花粉症の増大は製薬会社の陰謀だが、母の日は花屋の陰謀じゃないのかと勘ぐりたくなるくらい、ウルサイ、ウルサイよ。およそ生物はみな雌から産み出されるわけだが、そのうち、産んでくれた母親たる雌にくっついて乳を飲むのはほ乳類だけ。おおかたのほ乳類は乳離れしたら自分で生きていくんだが、人間だけがおっぱいだけでは飽き足らず、訓練しなければ自分の意思で排泄もできないし、道具も使えないし、ルールも理解しない。しかしそれらを習得していくのは母だけに依るのか? 母以外の要素がとてつもなく大きいのでないか? 人間は、人間だからこそ喜怒哀楽があり、祝いもすれば弔いもし泣きも笑いもするのだけれども、だからってそれは、すべて母のおかげなのか?

ノンだ。

女は、産んだら懸命に育てる。本能がそうさせるのだ。何も阻害要因がなければふつうその本能が働く。正常に働けば、生活上の物質的な多寡はあれど、子は育つ。なにがしかの阻害要因があると本能は働かないこともある。人間の弱いところ(あるいは強いところか?)といえるだろう。本能が働かない女を母親にもった子には、育児放棄されたり虐待されたりといったことも起こる。しかしそれは、全体から見れば少数の、まれなケースだ。報道が盛んにされるので虐待する親が増えたなどという論説を見かけるが、大多数の女が、産めばちゃんと育てているのだ。多くの場合、特別なミッションを神から与えられたとかそんなタイソウな意識はもたずに、産んだ子が可愛いから育てるのである。

だからって、自分ひとり、あるいは連れ合いと二人でだって、完璧な子育てができるとは限らない。自分の親とか親戚のおばちゃんとか保育士さんとかご近所さんとかさまざまな人の手を借りる。母親自身、完璧に育てられた完全無欠の人間などではあり得ないのだから、その自分から出てきた子がどの程度のもんかなんてわかりきっているではないか。せめて自分が信じるものをこの子にも信じさせたい、自分がいいと思うことをこの子にもいいと感じてほしい、できることがあるとしたらその程度で、はっきりいって母親でなくてもできることだ、そういうのは。

私の母は、夫(私の父)の家業に専従していたので、私を産んですぐ仕事に戻った。というとカッコいいかもしれないが、父の母、つまり姑が孫可愛さに母から私を取り上げたのである。「あんたはややこの世話せんでよろし」と、生まれたばかりの赤子からなかば引き離されて父の仕事に戻されたのだった。昔は、自営業の家では大なり小なり同じようなことが起きていたであろう。舅姑に子育てを助けてもらえず家業と育児をすべて押しつけられていた女のほうが多かったに違いない。それはそれでたいへんな目に遭っただろうが、ウチの母のように、赤子を取り上げられてしまうのも相当辛かったであろう。私はしたがって、母の背中で聞く子守唄とか、そんな思い出が皆無だ。母と密着した記憶がないので、いつも母のことを何となく第三者的な目で見つめてきたような気がする。母のにっくき(笑)姑である私の祖母は、私を溺愛したわけだが、だからって私には、祖母はただひたすら怖かったという記憶しかないのである。女手ひとつで三人の息子を育て上げた祖母は地域の婦人会を仕切る有力者でもあり、とりあえず、私の知る限り誰もが祖母にひれ伏していた(笑)。たぶん、私に生来備わっているエラそーな性格は100%ただしく祖母から受け継いだものである。世界は私を中心に回っており世の中の全員が私のシモベという意識は長年培ったものではなくて、「血」なのだ。
祖母が亡くなったとき、「大好きなおばあちゃんが死んじゃった」というような可愛らしい感情はなく、コワいコワいバアさまがやっといなくなったという思いと、もうひとつ、こちらがより大きいのだが、自分の半身をえぐられたような、からだに空洞ができたような感覚に見舞われて、激しく動揺したのを覚えている。

いつもちょっと距離を置いて母親を見つめてきた私だったが、それではまったく母への愛情がなかったかというとそうではない。「母の日」には小学校で作文を書かされた。お母さんへの手紙を書けというのである。学校には母を知らない子が、あるいは父を知らない子も数人いたが、学校というところはそういう子どもたちへの特別な配慮は、昔はしないところだった(いまは配慮しているとはいえないが、配慮せんでもええところへ余計なおせっかいをしている)。ともかく私は母の日には母を感激させる手紙を、父の日には父が喜ぶ手紙を書いた。それらは単なる年中行事の一つと化していた。なぜカーネーションなのか、とかそうした行事のいわれなどを学んだ記憶はない。ただアメリカ由来のもんらしいといつの間にか心得ていた。外来の行事なんかもうええのに、それぞれ誕生日も祝うのにめんどくさいなあとぼそっと口に出してしまったことがある。「おばあちゃんにもお誕生日と敬老の日があるやろ、アンタらには誕生日、こどもの日、雛祭り、クリスマス、お正月といっぱいあるやんか。父ちゃん母ちゃんにも誕生日のほかにもう一個あってもええやんか」……このセリフは誰が私に投げたのだっただろうか、誰かが私に言ったのだが、誰だったかが思い出せない。誕生日のほかにもう一個。そらまあ、そやな。

自分が母親になってからは、ますます「母の日」が疎ましくなった。娘は律儀にきちんとカードをくれる。感謝の言葉が並んでいる。嬉しくないわけはないが、間違ってもらっては困るとも思う。感謝されるようなことをしてはいないのだ。産む性ゆえの当たり前の所業である。できないことは、しなかった。
私の母もまた、したくてもできなかったし、それを無理にしようとはしなかった。姑に逆らったり家業に従事しないことは家庭の破滅を意味したから。母も、できないことはせずに、身の丈に合った子育てをしてきたのである。

買い物から戻ると、「どこも母の日のカーネーションでいっぱいやろ」と母が言った。「うん。どこもかしこも。スーパーも、今日はカーネーションだらけ。100円ショップも」と答えたが、花屋の陰謀には負けたくないので(笑)買わなかった。というのは嘘で、カーネーション、高いねん。今日まで、めちゃ高いねん。明日やったら値が下がるかな(笑)。いや、ウチにはいつか弟が母に贈ったカーネーションの鉢植えがあるのだ。今年は全然花をつけないけど(笑)。要は、どうでも、いいわけである。

今日もいい天気だ。

2014年5月7日水曜日

"Si t'en avais fait avant, tu pourrais en faire cadeau."

冷凍庫には実山椒がたくさんある。
一握り、いや二握りくらいか、少量ずつ小分けしてビニール袋に入れたものが数包み。
そのうちのひと袋を炊いて、ちりめん山椒をこしらえた。

実山椒は、母がまだ台所に立っていた頃、買っては冷凍保存していたものだ。日付を書いておいてくれれば古いものから使えるのに、と私が文句を言うと、どれも一緒や、などと言う。母は旬のものが出回ると必ず(けっこう大量に)買い求め、あるものはそのまま、あるものは下ごしらえして、よく冷凍した(彼女の欠点は日付を書かないことと、冷凍したことを忘れることである)。実山椒は、商店街の露店の八百屋でいつも買っていたようだ。毎年筍を買う八百屋とは別の、行商に来ている八百屋だ。

母はよく佃煮をつくった。昔から、母は派手な料理は苦手だった。雑誌や料理本に載っている、または料理番組で放映された、そんな料理を見よう見まねでつくってくれたが、いつもさほど美味しくなかった。出来合いのカレールーで仕上げるカレーでさえも、たいして美味しくはなかった。ただ母はたいへん忙しいにもかかわらず、味はどうあれ食事の支度を投げ出すようなことはけっしてしなかった。私も弟も、よほどの場合を除いて文句を言わず黙々といただいた(ごくたまに、「よほどの場合」もあったのだが)。
そんな母だけれども、干し椎茸や、だしをとったあとの昆布をじゃこと炊いてつくる佃煮はとびきり美味しかった。葉つき大根があれば葉は捨てずに大根葉の佃煮にした。そうした佃煮に、実山椒が入ることも頻繁だった。
私たちは、母の佃煮とご飯があれば、主菜も副菜も不要であった。佃煮とご飯で延々と食べ続けることができた。そういえば漬け物も、祖母のぬか床を引き継いで母が漬けていた。佃煮と漬け物があれば、地味だけど十分な食卓だった。思えばオール自家製で、たいへんスペシャルであったといえるではないか。

その後子どもたち(=私たち)が成長し、食べ物の嗜好も少しずつ変わり、台所家電も進化して、母の手料理のレパートリーにも少しずつ洋食系が加わっていったが、母は相変わらず、だしをとったあとの昆布をリサイクルして佃煮をつくった。瓶に詰めてお隣におすそ分けすると、お隣からは別のお手製の佃煮が返ってくる。それもまた、格別に美味しい。


けっきょくは私も、同じことをいま、している。だしをとったあとの昆布と、根菜の葉や皮を刻んで炊き合わせ、佃煮にしたり、ちょっと趣向を変えてオリーヴオイルと白ワインで煮詰めたり。母と私の食卓にはそんな小さなおかずが点々と、焼き魚を取り囲んで並ぶ。

「これ、美味しいなあ、あんたのちりめん山椒」
「冷凍庫にほったらかしになってた山椒でも、ぴりりとええ味するもんやな」

過日の札幌出張の折りに会った知人には、老舗Q堂のちりめん山椒をひと包み、手土産に持っていったが、
「行く前につくってこれ持ってってあげたらよかったのに。Q堂なんかより、ずっと美味しいえ」
……。そら、どもおおきに。

有り難き言葉なれど、冷凍庫の中でいつから眠ってたかわからん実山椒ではちょっと……ねえ。
とはいえ、我ながら、ほんまに、美味しい。

2014年4月19日土曜日

"J'ai souvent cuisiné du bamboo, moi."

朝掘り筍を買い求め、お吸い物にしたり蒸し焼きにしたりして、美味しくいただいている。

商店街の馴染みの八百屋で、これは少し固め、これは柔らかめ、食べる人のお好みなんやけどね、と指し示される。母の咀嚼力を考えて柔らかめがいいかなというと、「うーん、でもね、筍って歯応えで楽しむもんでもあるやん」。母を、そして母の好みもよく知る八百屋夫婦は「固めといっても朝掘りやし、よそで売ってるのより柔らかいから大丈夫」と、しっかり締まった筍をすすめてくれた。

値が張るが、さすがに新鮮なゆえの美味しさは格別だ。いろいろに調理して、旬を味わう喜びにひたっている。

このように素材がよいと、若干料理が下手でも問題にならないから助かる。たいした手を加えなくても済むのは、段取り下手で技術もない私のような人間には大きな味方。味覚の鈍くなった母には何を食べさせても、美味しいと言うのだが、たとえば先日友達のレストランに行った時のように、心底美味しいと思った時は口をついて出る言葉が違うのだ。レストランと張り合うつもりはないのだけれども(笑)、ウチでも、この筍のように、旬の新鮮な素材でシンプルに仕上げると、美味しい〜としみじみ言ってくれる。おそらく、今がその季節なのだ、と歳時記を確かめることで、かつての食事、かつての調理の記憶が甦り、今摂っている食事に重なって味わいが幾重にも増幅するのだろう。
母はほぼ毎日商店街へ出向き、八百屋、魚屋、肉屋とさんざんおしゃべりして食材を買ってきた。その時季のいちばん美味しいものを、馴染み客だからと少しおまけしてもらって買ったことを少し自慢げに話しながら、料理した。お世辞にも料理上手だったとはいえない母だが、自分の母親、兄嫁、そして姑から教わった、いわゆる昔からあるものは考えることなくいつもつくった。今この時期の筍もそうで、八百屋が自前で持っている竹薮から朝掘ってくる筍は当然高いが、午前中に必ず買いに行く母にはいつもサービスしてくれて、だから母はシーズン中何度も筍を買い、私たち家族は来る日も来る日も(笑)若竹煮と筍の澄ましと筍ご飯と木の芽和えをいただいた。

大鍋にたっぷり水を入れ、八百屋がつけてくれた米ぬか袋を入れて、筍を茹でる。
煮立ったら弱火にする。早くも筍の薫りが家中に満ちる。
「ええ匂いしてきたわあ」
「よう筍、炊いたなあ私も」
「お父さんが好きやったわあ、筍」
食べ物の話をすると、必ず「お父さんが好きやったわあ」というフレーズが出る。父はなんでも好きだったな、そういえば。

今の私は高価な筍をそう何度も買えないけれども、あと一度、買おうかな。という気になっている。去年もおととしも、一度ずつしか買えなかったが、それはどちらかというと時間の問題だった。時間のある今は予算が不足しているが、なに、ほかの何かを切り詰めよう(笑)。

2014年4月16日水曜日

"C'est très bon."

母と、友達の店で食事をした。

食べることが大好きな母は、「家族で外食」をことのほか喜ぶ人だ。父の染色業に専従していた母は朝から晩まで父の指示で仕事を手伝い、その合間に家事をした。近所の商店街へ食材を買いに出かけるのがほとんど唯一の外出だった。町内のレクレーションでご近所の奥さんたちと出かけたり、父の兄弟あるいは自分の兄弟姉妹との食事会などが企画されると出かけることができたが、父の兄弟たちはたいていはウチへ来た。盆と正月はあらかじめ来るとわかっているので準備できるが、それ以外にも、突然来訪することひんぱんだった。叔父がふらりとひとりで来るというパターンもなくはなかったが、たいていは家族で出かけていてその帰りに「ちょっと寄ったんやー」といっていきなり押しかける。「もう食事は済んでるから要らんよ」とは口ばかりで、酒やつまみを出さないわけにはいかないから出すとあっという間に平らげる。私や弟は従兄弟が来るのは嬉しくてよく遊んだが、たったひとりでいきなり来た客をもてなす母の心中いかばかりであったろうか。

夫婦で出かけることも、ほとんどなかった。仕事を終えたあと外へ飲みに出かけるのは亭主ばかりで、母はいつも夜中まで待っていた。父は、家族を連れて出かけようという発想はあまりしない人だった。

私たち子どもが大人になって稼ぐようになり、父と母をともなって出かけるといったことをできるようになって、ようやく母は「家族で外食」を楽しめるようになったのだった。とはいえ、私たち子どもはあっという間に多忙になり、貴重な余暇を何が嬉しくて偏屈な親父と主体性のないお袋を連れての外出に費やさなくちゃならんのだと考えるようになる。

私も弟も人の親となって、今度こそようやく、親子孫の三世代での「家族で外食」が、我が家の定例となりつつあった。それは安い回転寿司だったり、ファミレスだったりしたが、父も母も私たちと一緒にいるだけで幸せそうであった。

私たちの子、つまり母にとっての孫がもう18歳だ。「家族で」なんて、中高生になると頼まれても嫌だと思うようになる。それでも私の娘の場合、片親のせいもあるのだろうが、祖父・祖母・母・自分という4人で、祖父亡きあとは残りの3人で、出かけることにこだわった。年老いて出かけることを億劫がる祖父母の尻を叩いて無理やり連れ出したこともある。私と二人で出かけるのでは物足りないと感じる娘のためだった。しかし、母は座敷には座れなくなり、椅子席でも高さによっては立ち座りができないので、店という場所で食事をするのを遠ざけるようになった。美味しいと評判の新しい店、近いし歩いて(母は車に乗るのも容易ではない)行こうよ、といっても出たがらない。二人で行っといで、という。

今ではふつうに歩くのも困難なので、「歩いて行ける近所の店」も不可能だ。

友達の店はタクシーに乗ると1500円くらいの場所にある。あまり流行っていないので(失礼)、ほかの客の目を気にすることもない。糖尿病だけど、一年に一度くらいちゃんとしたレストランでご飯食べたっていいじゃないか、ということで連れ出すことにした。
友達の店は、欧風料理を謳う店だ。カジュアルフレンチ、かな。

「えらいなあ、こんな立派なお店もって」
「いえいえ、ぜんぜん立派とちごて」
「お店やって、お父さんとお母さんの面倒見たはんの、えらいなあ」
「いえ、面倒見てもらってんの、私のほうなんです。儲かってへんし人を雇えへんし」
「それでええにゃ、体動かさなあかんえ。動かし続けてたらな、ちょっと悪なっても治るねん。動いてへんかったらな、悪なっててもわからへんし、気がついた時はもう遅いねん」
「そうですねえ、ウチの両親にももっと店で働いてもらいますわ」(笑)

友達の両親は母より年上だが、背筋はしゃんと伸びて足取りもたしかだ。お父さんは仕入れを手伝い、お母さんはホールを手伝っている。記憶がやや覚束ないことがあるようだが、お母さんが注文を間違ったことはまだないという。
「よう叱られますねん」
「しょうがおへんなあ、叱られてるうちが花かもしれまへん」

友達の店は町外れにあり、長年の贔屓客だけでなんとか保っているといってもいい。何度も経営の危機に陥りその度に畳むことは考えたというが、友達と両親の人柄か、客がやめさせないのだそうだ。

「おいしいわあ。ものすご、おいしいわあ」
母は何度もそう言って、少しずつ、むせないように注意深く、箸を口に運んでいた。


2014年4月13日日曜日

"Il faut faire de l'exercice, oui."

今月の初め、数か所のリハビリデイサービス施設を見学した。
なかなか興味深い体験だった。
介護保険施設にもかかわらず、来ている高齢者の元気なこと(笑)。アンタたちほんまに要介護老人なのか? いや、たいした運動をしているわけではない。ただ、みなさん、表情が明るく、生き生きしておられるので、ことさらお元気に見えるわけだ。
母がとても、みすぼらしく見える。
高性能なマシンが並び、おじいさんおばあさんたちが思い思いにゆるゆるとトレーニングするさまは、スポーツジムとは明らかに異なるけれども、現在母が通うデイサービスセンターの雰囲気にはない「活気」がたしかにある。
マシンを利用する高齢者は、要介護老人のはずなのに、なんとなくスポーツマンの凛々しさを表情に湛える。
「お試し体験」でマシンに座らせてもらう母。言われるままに手足を動かす母。
これほどエクササイズマシンの似合わない図があるだろうかと思うほど、母の様子は、この空間に場違いであった。


母は、ちょうど一年前に胃潰瘍のためひと月入院した。
胃潰瘍だから、入院したのではなかった。いきなり食欲が減退し、食べようとしても食べられない。そんな状態が続いた。
それよりさかのぼること1週間くらい、転倒して鎖骨を骨折していたのだが、そのこととの関連はなさそうであった。咀嚼ができなくなったのかと思い、おかずをすべてポタージュ状にしたり、 飲み物にとろみ剤を入れて飲み込みやすくしたり、手を尽くしたが、ひと口、ふた口くらいでもう受けつけない。母は「なんでかわからへんけど、食べられへん」というばかりで、痛みや苦しさをまったく訴えない。
当時、私は朝食は一緒に摂ったが、昼・夜の食事は準備してつくっておき、温めればいいだけにして出勤していた。
午後の途中で、娘が学校からいったん帰宅し、洗濯物を取り込み、母が食べたかどうかを見てくれる。
「おばあちゃん、何も食べたはらへん」とメールが来る。
非常に心配される状態だったが、母につきっきりでいるわけにいかなかった。
仕事はいつものサイクルで繁忙のピーク。さらに、娘がバレエ発表会の本番直前であった。衣装のサイズ調整やシューズの滑り止め、舞台小道具の制作など、連日針仕事にも追われていた。さらには楽屋番として差し入れの買い出しまで。
なにより、母は孫の舞台をことのほか楽しみにしていた。今主治医に見せると「即入院」と言われそうな予感がして、発表会が終わるまで頑張ってくれの内心祈りながら、母の口元にポタージュを運んだ。

舞台が終わり、翌日すぐに糖尿病をみてくれている主治医を受診したら、消化器系の医院に紹介され、エコーで胃腸を診察。だが異常は見つからない。
翌日も、翌々日も食欲は戻らず、目に見えてやせ細ってきた。仕事で動けないので、弟嫁に頼んで主治医に診せた。栄養失調。すぐに点滴された。体重も激減。ただし、血糖値はすこぶるよかった。食べてないから当然だが、皮肉なもの。
すぐにベッドの空きを検索してもらい、家から近くの総合病院で受け入れてもらうことになった。とにかく原因不明の食欲減退による栄養失調ということで、連日、一日中点滴をした。
並行して、いくつもの精密検査が行われた。胃カメラを二度飲んで、ようやく潰瘍が見つかった。


結果的に胃潰瘍で、しかも重篤ではなかったが、この結論を導き出すのに、約ひと月ものあいだ母はほとんど運動らしきことをせず、ベッドの上で過ごす日々を送った。上げ膳据え膳、簡易トイレもベッド脇にセットしてもらい、移動は車椅子。
この病院でのひと月ですっかり筋力が衰えてしまった。
ほんとうに、それでなくても衰えていた母の筋力は、この悪夢のひと月で徹底的に弱ってしまったのだった。

退院して帰宅した母は、自分の「歩けなさ」に驚き、戸惑った。杖を使えばすんなりと移動していたのに、杖をどうついても、足がついてこない。足を思う場所へ引き寄せることができないのだ。
以前から、立ち座りに難があったが、自力では腰が上がらなくなった。ダイニングに居る時は、テーブルにしがみついてようやく立つ。ベッドからは、そばにある家具をつかみ、ベッドサイドをつかみ、そのほかあらゆるものにつかまって立つ。
前からしょっちゅう転倒していたが、より頻繁になった。

6月からデイサービスに通うことになったが、入院騒ぎがなかったら4月から通所予定で進めていたことだった。ただし、当初は「昼間たいしたことをせずに家に居るより出かけたほうがいいから」という理由だった。介護度「要支援2」の母は、たいていのことを自分でできる人、と認定されていた。……はずなのだが、入院のせいで歩行とそれにまつわる動作が極端に困難になり、受け入れる施設側スタッフにも戸惑いの色が見えた。その人にどの程度手を取られるか、は受け入れ側にとって大きな問題だ。

介護度の認定をやり直すことも検討したが、私の都合で土日しか来てもらえないので日程調整にまず非常に苦労する。認定されたらされたで「会議」を開催せねばならずその日程調整。最初の認定で振り回された記憶がまだ新しくて(それはケアマネも同様だったと思う)、ちょっとげんなりしていた。そんなこんなしているうちに更新時期が来る……と思って変更申請はしなかった(これについてはたいへん後悔した)。そして、デイサービスセンターには、「要支援」のままで母をほぼ「介護」していただくこととなった。

デイへ通所する日々にも慣れ、孫の不在にも慣れ、動かない体にも慣れ、母は起伏のない日々をそれなりに暮らしているが、弱った筋力はますます弱まる一方で、家庭内ですら「できること」が減っていく。できることが減ると動くことがますます減る。
母自身もこれではいかんと、天気のいい日は散歩に出たりする。
しかし外へ出ると甘いお菓子を売る店がわんさかある(笑)のでつい買い込み、厳禁されているのにたらふく食べてしまい、血糖値がまた上がって主治医に叱られる(笑)。

もうひとつ、歩くことは糖尿病フットケアの医師から禁じられている。
神経障害を起こしているせいで胃潰瘍の痛みにも無感覚だったのだが、退院直後、足を引きずってしか歩けなくなっていて、そのせいで足に大きな靴擦れをつくった。それが悪化し、手当を尽くしても、もう10か月、治癒しないのだ。靴擦れは皮膚潰瘍となり、膿んでは緩解、膿んでは緩解を繰り返している。足から出血していても気づかず、まったく痛いと感じないまま、ばい菌が入ってしまったのだった。フットケアドクターによると、高齢や糖尿による回復力の低下もあるが、歩いてできた傷だから歩くことが最も治癒を妨げる。早く治すには歩かないことがいちばんだ。あるいは、傷口に圧力がかからないような特殊な矯正靴をオーダーし、四六時中それを履く。
非現実的。


ダイニングテーブルの上に置いたポータブルプレイヤーに高齢者体操のDVDをかけ、椅子に座ったままでもできる体操レッスンを観ながら、えっちらおっちら、見よう見まねで手足を動かす。そんなことも日課に加わった。歩くのが御法度なら、歩かずに運動すべし。
しかし、当然のことながら、こんなことでは筋力低下に歯止めはかからない。
先月初め、路上で転倒した。止まってくれたタクシーに乗ろうと、近寄りかけてバランスを崩したのだ。
その数日後、今度は家の中でバランスを崩したらしい。本人もうろ覚えでもはや想像するしかないが、転倒した時に冷蔵庫か何かの角でしこたま額を打ったらしい。ジャイアンに殴られたのび太だってこんなひどくはないよというくらい、大きな黒い輪っかが目のまわりにできてしまった(まだ消えない)。


派手な転倒を繰り返して命取りになってしまう前にできることがあるはずだ。「なんとかしてください」と訴えた。母が要介護状態になるのを防ぐために「介護予防」の名目で「要支援2」がつけられたはずだ。「介護予防」のためにケアしてくれるんなら、予防してもらわなくてはならない、なんとしても。筋力アップのためのリハビリを受けられるように手を打ってくれ。「要支援2」の認定が行く手を阻むなら、あらゆる手を使って介護度が上がるように計らってくれ。月イチで訪問したり電話したりして母の様子を窺っているケアマネも、事態は外から見るより深刻だと気づいてくれたようだ。

京都は高齢者の割合が非常に高いので、たとえば特養ホームの「待機高齢者」の数がすごいのだ。「待機児童」の比ではない。冗談みたいな、ほんとの話。リハビリデイサービス施設も同様で、キャンセル待ちではある。しかし、母は、何か所かお試し体験をして、運動すればもっとよくなれるかもしれないという手応えを感じたらしい。
「運動しな、あかんな。ああいうとこへ行ったら、できるな」
日常生活で「できる範囲」のことだけするのとは大きく異なるということを実感したようだ。
リハビリに通える日が、待ち遠しいな、母ちゃん。

2014年4月9日水曜日

"C'étaient tellement beaux, les cerisiers"

久しぶりに会った知人は、大きなマスクを着けていた。
「すみません、ご無沙汰ばかりの上にこんな顔で」
「いえ、そんな。花粉症ですか」
「風邪を引きまして。ここ数日の急な冷え込みで、すっかり」
「寒かったですねえ、ほんとに」
「こういう気温の乱高下にカラダがついていきません。歳とりましたよ」

先週末から今週始めのほんの3、4日だったが、花冷えというにはあまりにも冷酷な寒さに見舞われた。その前の数日は日中の気温が24度に達するなどすっかり春だったので、我が家では暖房器具をすっかり片づけた。すると、空は晴れているけれど風が冷たく強く、夕方になるとしんしんと冷気が下へ降りてきて、フローリングの床が冷たい冷たい……。

母の部屋の床暖房の、設定温度を再び上げた。
京都の家は、夏の暑気を和らげる構造になっているので、冬はとことん寒く、こうした季節の変わり目に、順序を裏切るかたちで冷え込みが来たりすると寒いことこの上ない。
寒いなあ、寒いなあと母が言う。
「せっかく冬のもん片づけたけど、また出して、着てんねん」
なかなか衣替えもうまくいかない(笑)。
しかしあと2、3週もすれば「夏」になる。
暑くなってから慌てて夏支度はたいへんなので、今から少しずつ家を夏仕様に替えていく。

知人のオフィスをあとにし、まちなかを自転車で走る。
真昼。平日のこんな時間に繁華街を走るのは何年ぶりだろうか。
あっちの角を曲がり、こっちの道を突き抜けて……と目的なく縦横に走る。
そこここに、満開の桜が見える。まったく、桜はそこいらじゅうにあり、今が盛りと開いている。

デイサービスセンターでは、昼食後のレクレーションの時間に外出させてくれることもある。先週、気温が上がった時に母たちのグループは岡崎公園のほうへ連れていってもらったらしい。入場料の要るところには入れないので、お金を使わなくてもよく、車を停められて、車椅子でも通行できて、となると、こんなにいたるところに桜が咲いてても、意外と見に行けるところは少ないのだと、スタッフが言っていたそうだ。
まったく、そうだな。美しいところは神社仏閣に集中している京都は、石畳や石段だらけで、まこと足下の不安定な人間には優しくないのだ。

「桜、きれいやったわあ。満開やったわあ」
その日帰宅した母はほんとうに幸せそうであった。
そろそろ、桜も散り始める頃である。


2014年4月7日月曜日

Il y a les jours comme ça.

母は糖尿病を患っている。深刻な合併症などは出ていないが、食事を工夫しても血糖値が高いままで、主治医はいつも渋い顔である。趣味もなく、歩くのに難がある今となっては、ただ出された食事を食べるだけが楽しみの母である。私は料理が得意なわけではないので、そんなにいろいろあれもこれもできない。でも、娘が高校に入って陸上競技をやめた時から、カロリー制限ダイエットや糖質制限ダイエットを試み、あれもダメこれもダメお母さんこういう食事にしてよ、などとうるさかったので、つまりヘルシーな食事には何を控えればよいのか、おおざっぱな知識は私にもついたので、それを応用すればいいのである。ま、娘の場合、ダンサブルなボディになるためだからどんなストイックな状況にも耐えられたが、母は、食べられなくなるくらいなら糖尿病なんか治らんでもええ、と考えるタイプなので(笑)、あまりショボイつまらない食事にならないようには、しなくてはならない。主治医からキツく言われている「おやつ厳禁」も、時には解除している(解除日が多すぎる気もしなくはないが)。

今日、ホームベーカリーでパンを1斤焼いたんだが、材料を入れる時にうっかり砂糖の計量を間違えた。いつもは砂糖を入れないのだけど、膨らみにくいライ麦粉をたくさん入れるので、ちょっとだけ砂糖を入れとこうと思い、パンケースを前に砂糖ケースを持って、その瞬間だけ何か別の考えごとをしていたのであろうか、ぱさっ、と砂糖を入れたらスケールの数字が15gを示した。「しまった」
砂糖を使う場合でも、てん菜糖やきび砂糖は10gが最大、白砂糖やオリゴ糖は5gを超えないように加える。なのに15g。先に水を入れてあるので瞬く間に融けてしまった。

「ま、いいや」

パンの主原料である小麦粉そのものが炭水化物=糖質であるので、これ以上糖分を加えるべからずってとこなんだけど、パンってさ、砂糖の力で膨らむんだよね。

「しゃあないやん」

ま、いいや、しゃあないやん、なんて事態は、実はしょっちゅうある。
出来合いの調味料やだしの素、スープの素の類いには、必ずと言っていいほど塩分と糖分が含まれている。だからほとんど使わない。あるけど、「非常用」ということにしている。でもけっこう「非常事態」は訪れる。
時間がなかったり、材料を切らしているのに気づいたのが夜遅かったり。
そんな「しゃあない」非常事態に、ブイヨンキューブだけでスープをつくるとか、野菜炒めの味つけが顆粒の昆布茶だったりとか。
また、うまいんだよね。
でも、糖尿病患者さんには御法度だ。

だけど、そんな日もある。そんな日々も、しょっちゅうある。

2014年4月6日日曜日

"Je n'y vais pas s'il pleut"

今日は投票日だった。投票所は近所の自治会館で、わたしがふつうに歩いて行けば5分もかからないところだ。午後から出かける用事があったので、朝食を済ませたらゆるゆると出かけようと、母と約束していた。しかし、夜半から降り出した雨が、朝になっても止まなかった。

「雨降ってたら、行かへんえ」
「またそんな。選挙は行かなあかんで。どしゃ降りにはならへんよ、今日は。すぐ近くやし、行こうよ」
「雨降ってたら、行かへん」

台所を片づけて耳を澄ますと、いつのまにか雨音は止んでいた。
おもてへ出てみると、陽が射している。

「晴れたよ」
「ほな、行こ」

母は身支度をし、手押し車を押して上がり框のところまで来て腰掛け、靴下をはきなおし、靴を履き、上着を羽織って、上がり框に腰を滑らせて、外出用の手押し車のところまで行こうとした矢先、再び強い雨が降ってきた。わたしなら投票所と家を3往復できるくらいの時間、晴れていたんだけど、残念である。

「雨降ってるし、行かへん」
「すぐ止むよ。いまもそんなにきつい雨とちゃうよ」
「もう行かへん。ひとがせっかく靴履いてんのに、殺生な。行かへん」

そう言って、せっかく履いた靴を脱ぎ、上着も脱いで、室内に戻ろうとする母。

「ほな、あたし、行ってくるよ。すぐ帰るしな」
「傘さして行きや」

そら、傘さすってば(笑)。しかし、そう思いながら傘を手におもてへ出ると今度は止んで青空がのぞいていた。

「止んだよ! もうお日さん出てるよ。行かへんの」
「行かへん。また降るかもしれんやろ、歩いてる間に」
「傘持って行くやん」
「雨降ったら行かへん」
「今降ってへんって。止んだって」
「そやけど、さっき降ってた。せっかく人が行こうとしてんのに。もうええのん。雨降ったら行かへんにゃ」

お隣のおばちゃんも声かけてくれたけど、けっきょく母は行かなかった。
今日は一日強い風が吹き、春とは名ばかりの寒い日だった。晴れ間が見えていたとしても強風でポカポカお散歩気分にはなれない。母の気持ちもわかる。手押し車で両手がふさがるので自分で傘を差せないし、わたしが母に傘をさしかけるわけだが、どうしても半身濡れてしまう。それが、たぶん嫌なのだ。

投票結果は予想どおりでまず順当。

「私が行かんでも、おんなじこっちゃ」

ほら、だから、そういう人ばかりだから、あんな大阪市長とかあんな大阪府知事とか、あんな東京都知事とか、あんなソーリ大臣とかになっちまうわけさ。






2014年4月3日木曜日

"J'ai mangé du poisson."

「今日のぉ、お昼はぁ、何を食べましたかぁ? 覚えていますかぁ?」
介護保険制度のサービスを申請すると、調査員が家庭訪問をし、サービスを受けるにふさわしいかどうかを調べる。身体機能をはじめ本人の状態を知るために、おびただしい数の細かい質問を投げかける。対象は高齢者で、調査員より何十年も多く生きている人々だが、調査員は一様に、まるで幼児に話しかけるように優しく優しく優しく語尾をのばした粘度の高い口調で、首を傾げて語りかける。
「おさかな」
ぼそっと、母が言う。
「はい、おさかなぁ」
「おつけもの」
「はあい、お漬け物ねぇ」
「にもの」
「はあい、煮物ですねぇ。何の煮物でしたかぁ?」
「……」
「はあい、いいですよぉ、また思い出しといてくださいねぇ」

父が亡くなって9年が経った。つまり、父が要介護度2とまず認定されたのは10年前になるのだな。父の介護申請をし、初めてこういう世界に足を踏み入れたとき、人間とはなんと面倒な生き物なのだろうとつくづく思った。年をとると子どもに返るというが、それはその老人を子ども扱いすべしということではない。だが、しかし、先述したように、幼児に語りかけるようにゆっくりと、平易な言葉で優しくいわなければ、やはり高齢者たちは何を言われているのかわからないのだ。自分の親がまるで聞き分けのない3歳児のように扱われているのを見て激怒する人もいるというが、気持ちはとてもわかる。わかるが、本人たちを70年80年90年と生きてきた人生の先輩として尊ぶからこそ、どのようなことであれ本人の意思を第一に大切にしたい。なにがなんでも本人の気持ちを引き出し、その意思に沿った介助をしたい。けっきょく、そうして、理解を早めるための手段としての幼児言葉なのだ。

調査員、ケアマネ、介護用品の販売員、施設のスタッフ。介護の現場で働く福祉士のみなさんの苦労は想像を超えているだろうが、それよりも、どうにも解消できない違和感が立ちはだかり、ああほんとに世話になってるなあ、彼らを労いたいわ……という気持ちが萎えていく。