2014年4月16日水曜日

"C'est très bon."

母と、友達の店で食事をした。

食べることが大好きな母は、「家族で外食」をことのほか喜ぶ人だ。父の染色業に専従していた母は朝から晩まで父の指示で仕事を手伝い、その合間に家事をした。近所の商店街へ食材を買いに出かけるのがほとんど唯一の外出だった。町内のレクレーションでご近所の奥さんたちと出かけたり、父の兄弟あるいは自分の兄弟姉妹との食事会などが企画されると出かけることができたが、父の兄弟たちはたいていはウチへ来た。盆と正月はあらかじめ来るとわかっているので準備できるが、それ以外にも、突然来訪することひんぱんだった。叔父がふらりとひとりで来るというパターンもなくはなかったが、たいていは家族で出かけていてその帰りに「ちょっと寄ったんやー」といっていきなり押しかける。「もう食事は済んでるから要らんよ」とは口ばかりで、酒やつまみを出さないわけにはいかないから出すとあっという間に平らげる。私や弟は従兄弟が来るのは嬉しくてよく遊んだが、たったひとりでいきなり来た客をもてなす母の心中いかばかりであったろうか。

夫婦で出かけることも、ほとんどなかった。仕事を終えたあと外へ飲みに出かけるのは亭主ばかりで、母はいつも夜中まで待っていた。父は、家族を連れて出かけようという発想はあまりしない人だった。

私たち子どもが大人になって稼ぐようになり、父と母をともなって出かけるといったことをできるようになって、ようやく母は「家族で外食」を楽しめるようになったのだった。とはいえ、私たち子どもはあっという間に多忙になり、貴重な余暇を何が嬉しくて偏屈な親父と主体性のないお袋を連れての外出に費やさなくちゃならんのだと考えるようになる。

私も弟も人の親となって、今度こそようやく、親子孫の三世代での「家族で外食」が、我が家の定例となりつつあった。それは安い回転寿司だったり、ファミレスだったりしたが、父も母も私たちと一緒にいるだけで幸せそうであった。

私たちの子、つまり母にとっての孫がもう18歳だ。「家族で」なんて、中高生になると頼まれても嫌だと思うようになる。それでも私の娘の場合、片親のせいもあるのだろうが、祖父・祖母・母・自分という4人で、祖父亡きあとは残りの3人で、出かけることにこだわった。年老いて出かけることを億劫がる祖父母の尻を叩いて無理やり連れ出したこともある。私と二人で出かけるのでは物足りないと感じる娘のためだった。しかし、母は座敷には座れなくなり、椅子席でも高さによっては立ち座りができないので、店という場所で食事をするのを遠ざけるようになった。美味しいと評判の新しい店、近いし歩いて(母は車に乗るのも容易ではない)行こうよ、といっても出たがらない。二人で行っといで、という。

今ではふつうに歩くのも困難なので、「歩いて行ける近所の店」も不可能だ。

友達の店はタクシーに乗ると1500円くらいの場所にある。あまり流行っていないので(失礼)、ほかの客の目を気にすることもない。糖尿病だけど、一年に一度くらいちゃんとしたレストランでご飯食べたっていいじゃないか、ということで連れ出すことにした。
友達の店は、欧風料理を謳う店だ。カジュアルフレンチ、かな。

「えらいなあ、こんな立派なお店もって」
「いえいえ、ぜんぜん立派とちごて」
「お店やって、お父さんとお母さんの面倒見たはんの、えらいなあ」
「いえ、面倒見てもらってんの、私のほうなんです。儲かってへんし人を雇えへんし」
「それでええにゃ、体動かさなあかんえ。動かし続けてたらな、ちょっと悪なっても治るねん。動いてへんかったらな、悪なっててもわからへんし、気がついた時はもう遅いねん」
「そうですねえ、ウチの両親にももっと店で働いてもらいますわ」(笑)

友達の両親は母より年上だが、背筋はしゃんと伸びて足取りもたしかだ。お父さんは仕入れを手伝い、お母さんはホールを手伝っている。記憶がやや覚束ないことがあるようだが、お母さんが注文を間違ったことはまだないという。
「よう叱られますねん」
「しょうがおへんなあ、叱られてるうちが花かもしれまへん」

友達の店は町外れにあり、長年の贔屓客だけでなんとか保っているといってもいい。何度も経営の危機に陥りその度に畳むことは考えたというが、友達と両親の人柄か、客がやめさせないのだそうだ。

「おいしいわあ。ものすご、おいしいわあ」
母は何度もそう言って、少しずつ、むせないように注意深く、箸を口に運んでいた。


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