今月初め、予定日より一日早く、Mちゃんに男の子が誕生した。3000グラムを超える大きな赤ちゃんだ。比較的安産で、イタタ、と言ってる間に生まれたとな。
めでたしめでたし。
さて、Mちゃん夫婦の新居は東海地方なのだが、今回は里帰り出産をしたのである。Mちゃんが選んだ産院はウチの近所。私の足なら歩いて5分、信号待ちに遇ったらプラス1分くらいかな。古くからあるので地域では馴染みの産院である。母もその名前をよく知っている。だから「生まれたら、見にいこな」と、Mちゃんが大きなお腹を抱えてウチを訪問してくれたときからそれはそれは楽しみにしていた。
誕生の一報を聞いて私たちはさっそくMちゃんを訪ねる段取りをした。母は二つ上の実姉も誘うという。
「そんなら早めにいうて、お祝いとか打ち合わせしといたほうがええんちゃうの」
「そやなあ。姉さんに電話するわ」
と言い終わるやいなや母は電話のそばへ行くため腰を上げようと何回もトライしようやく電話機にたどり着き、そらんじている伯母の番号を押した。何度も同じフレーズが母の口から繰り返されて、ようやく話がまとまったらしい。
「明日、10時にウチへ誘いに来るて」
伯母は母より年が上で過去に大病も患ったのに、背筋は伸びて足もしっかりしていて、母と一緒にいると母が伯母の十歳上の姉みたいに見える。ところが若干物忘れが激しい。ここ何年かの間に不幸が何度もあったので、親族どうし会う機会が多かったが、母の兄弟姉妹たちは皆頑健でしゃきっとしているように見え、その実、やはり頭は母がいちばんしっかりしているということを、私は幾度となく確認した。いや、もちろんそうでないと困るが、動かないで日がな一日ボサーと座っている母にボケの兆しはなく、お稽古事に行ったり畑仕事を続けたり写経に通ったりしている母の兄や姉は、どうも会話がかみ合わなかったり、伝言が伝わらなかったり、昨日と同じ話を今日もしたり、といささか心もとないのである。
翌日、10時前になったので母はそろそろと玄関口のほうへ動き始めた。伯母がきたらすぐに出られるように。しかし10時を少し過ぎた頃電話が鳴った。伯母だった。
「お祝いてなあ、やっぱり午前中に行かなあかんやろか」
「え? 伯母ちゃん、今日来れへんようになったん?」
「いや、そうやないけど、まだこれから用意するし」
「そうなん? ウチのお母ちゃん10時に約束したて言うたはったえ」
「あ、そう? 10時て。今何時……10時まわってるなあ」
「待ってるから用意できたら来て。とにかく母に代わるし、そう言うてくれる?」
といって母に受話器を渡した。
「あんた、どないしてんの……待ってるえ……11時半までに来れへんか? そうか、ほな待ってるさかい来てや」
子機を私に渡しながら「11時に行けるっていわはんねん、けど、私は無理やと思うねん」とつぶやく母。
「ほな、気長に待ってたげよ。産院はすぐそこやし。11時に行くって伯母ちゃんが言わはったんやったら来ゃはるやろ」
と私は応じたが、11時を10分ほど過ぎたあたりから母がぶつくさと文句を言い出した。
「ほんまに姉さん、何したはんにゃろ」
「11時に来るのなんか無理やってさっき自分で言うてたやん、予想してたとおりやん」
「言うてたけど、それでも来ゃはるかなと期待したのに」
11時20分。
「もうほんまに、何してんの」
「これからぜったい姉さん誘わへんわ」
「いいかげんにしてほしいわ」
怒り心頭である(笑)。
しかしいくらなんでもそろそろ到着だろうと思い、私は外出の用意の仕上げにかかった。
11時半を2分ほど過ぎて、伯母が来た。「ごめんごめんー」
まあ、なんつーか、よかったよかった。というわけで3人で出かけた。
しかしほんとうにたいへんだったのはここからである。
母の足だと15分はかかるかな、と思っていたら25分かかった。近所とはいえ、その産院はいつもは歩かない方角にあり、道に馴染んでいないので、思わぬ段差や突起物に遭遇しやしないかと慎重に歩を進めざるをえなかったことも理由のひとつであるが、とにかく足の力の衰弱は甚だしい。リハビリデイサービスも、まったく効果なしである。
ようやくたどり着いた産院は、玄関口に高い高い石段があった。これでは手押し車は役に立たない。伯母と二人掛かりで母の足を段に乗せ体を引き上げる。ようやくドアを通過すると今度は「スリッパにお履き替えください」の札が。2足制だとぉ〜? 母は立って靴を脱ぎスリッパに履き替えるなんて芸当はできないのだ。
「すみません、椅子を貸してください」
受付には数人の女性がいて、私たちが入るのを見守っていたようだが、様子を見て声をかけるとか手伝おうとかしに来いよ、と私は内心あきれ果てていた。しかし当然かもしれない。ここは産婦人科医院だ。高齢者の来るところではない。職員も気が利かないのだ。
ようやく、ウチの母が相当に動作に難儀なことが伝わったのか、椅子を持ってきた女性が「申し訳ないんですけど、エレベータはあちらの奥です」と待合室の向こう側を指さした。そして「ここも昇っていただかないと……不便なつくりですみません」と待合室手前の3段ほどの小階段を指し示した。私と伯母は母の両脇を抱えて昇らせた。
「はあ、ひと騒動やなあ。かんにんえ、私のためになあ」
すまなそうな顔で姉に詫びる母。さっき怒りまくってたのが嘘のようだ。ま、これでおあいこだ。
それにしても、入口の大きな石段といい、室内のあちこちにある段差といい、ひとつ間違えれば妊婦さんだって転倒の恐れはある。この産院、建物のつくりはいささか前時代的だ。これだと遠からず妊婦も来なくなるんじゃないかと思うけれども……。
そしてようやくようやくようやく(笑)たどり着いたMちゃんの部屋。赤ちゃんも小さなベッドに眠っていた。
「わあ、ちっちゃーい! 可愛い〜〜」オババ3人で歓声を上げる。
Mちゃんのひとまわり年上のダンナもいた。私は笑いがこみ上げるのをなんとか押さえながら「初めまして」と簡単に挨拶をした。ダンナは腰の低い、好感の持てる態度だったが、知らない人ばかりが来てお祝いを置いていったりするのにどう対処したらいいのかわからないふうだった。ちゃんと挨拶しないといけないんだけど何をなんて言おう、みたいな顔をして、少々うろたえているふうだったがでも嫁のベッドの端にちょこんと座り、たいへんリラックスしたふうでもあった。ま、オババ3人にとっては彼のことはこの際どうでもいいのであった。
私が代表で、赤子を抱っこさせていただく。
ちっちゃい。軽い。こわれそうだ。私の腕の中で、しきりに顔をくちゃくちゃさせて、突然賑やかになった周囲の音が耳障りなのだろうか、でも目はなかなか開かず閉じたまま、しかし口は何度も大きく開けてあくびをした。
「ごめんなあ、おねむやのに。おばちゃんうるさいなあ」
冬に友人に子が生まれ、また別の、こことは違ってたいへん新しい産院を訪ねたときも、抱っこしてしきりに話しかける私のことなど全然見ずに、赤子は顔いっぱいに口を広げてあくびをしていた。そうそう、子どもは寝るのが仕事。寝てても、顔をくしゃくしゃにしても、あくびばかりしていても、赤ちゃんって美しい。命の発露そのもの。真っ赤な小猿みたいだけど、光り輝いているのだ。
Mちゃんを訪ねるまでの長い長い旅路(笑)の話を少しだけ披露した。
「ほんまになあ、私がこんな足やから、たいがいやないわ、ここまで来るの。赤ちゃん見に来るのってひと仕事やわ」
「ありがとうございます、おばちゃん、そんなたいへんやのに来てもろて」
「それでもそないしてでも、来る値打ちあるえ。赤ちゃんはええわあ。可愛いわ、ほんまに可愛いわ」と母。
「元気、もらえるわ」と伯母。
産院をあとにし、伯母と別れたあと、商店街の漬け物屋さんへ足をのばした。疲れただろうと思ったが、お漬け物を買いたがっていたので尋ねると、「行く行く」という。
漬け物屋さんのおかみさんは母のおしゃべり友達で、毎日のように買い物に来ていた頃は必ず足を止め、子育てのこと、姑のこと、実の親兄弟のことなどふたりで愚痴の大売り出しをし合ったそうだ。今、商店街ヘ行くのは母にとってあまりに「遠足」だが、漬け物屋さんにはときどき連れていくことにしている。
「姪の娘に赤ちゃんが生まれて、見てきたんえ」
「そらええわあ。できたてほやほやや。生命力、もらわんとなあ」
ほんとうに、Mちゃんの赤ちゃんのおかげで、母には少し活力がついたように見えた。
しかしそれから間もなく、ちょっぴり活気づいたことが徒になる出来事が起きてしまう。
まったく、物事はうまくいかないようにできているらしい。
2014年9月29日月曜日
2014年8月22日金曜日
"Elle était si belle, vraiment, comme si c'était une fée!"
従姉の娘のMちゃんが、大きなお腹を抱えて訪ねてくれた。
来月7日が予定日だ。
Mちゃんは私が高校2年生の時に生まれた。翌年にはその妹、Yちゃんも生まれた。すでに高校生活に飽き飽きしていた私は宝石のような赤子の誕生に宝くじにでも当たったかのように有頂天になり、週末を待ちかねて従姉の家を訪ね、ひとしきり赤ん坊の相手をして遊んだ。従姉はとても美人で、ダンナも昭和な色男で(笑)、当然のことながら娘たちは二人とも器量よしだ。遊びに行くたび愛らしさが増し、目の中に入れても痛くないとはこのことだぞ、とこれじゃあまるで初孫を見守るジイジ・バアバの心境だけど、ほんとうに、その成長に立ち会える幸せを存分に味わった。
そのMちゃんが、お母さんになる。なんだか感無量だ。
先に結婚したのはYちゃんだった。年下のダーリンはYちゃんにメロメロで(笑)献身の限りを尽くしているらしい(笑)。「ほんま、ええ婿殿やけど、ちょっと痛々しいな……と思う時、あるわ。ははは」と笑うのは従姉のダンナ。そんなYちゃん夫婦にはまだ子どもがなく、バリバリ働いていてまったく結婚のケの字もなさそうだったMちゃんが突如結婚すると言ったと思ったら妊娠も判明。Yちゃん夫婦による初孫のプレゼントを心待ちにしていた従姉夫婦はさぞかし仰天しただろうな、どんな顔してMちゃんから話を聞いたのだろう、と私は半ば面白がりながら、事の顛末を聞いた。
Mちゃんが30代半ばにさしかかり、妊娠・出産のリスクが高まることが従姉にとってはいちばんの気がかりだったという。「あんまり口うるそう言いとうなかったけど、子どもは早よ産んだほうがええねん、好きな人がいたら仕事は二の次にして結婚しい、って何回言うたかわからんわ。ほな突然両方来た。もう、かなんわ」と諦め顔で話す従姉。Mちゃんの伴侶となるのはひとまわり年上の働き盛りの40代。「お互いに前から知り合ってたけど、そういう仲になったんはつい最近で、つきあい始めてすぐ結婚する気になったんやて」(従姉)
ふうん。人の縁ってわからないものだねえ。
この従姉は私のことを小さい頃から可愛がってくれ、まだひとりでは行けないところによく連れていってくれた。ゴジラ対モスラ、とかではない恋愛ものの洋画を初めて観にいったのは従姉とだった。ネックレスとか、ハンドバッグとか、ちょっと大人な店には従姉に連れていってもらった。私の母は、自分の兄嫁にあたるこの従姉の母親にたいへんよくしてもらっていたので、当然この従姉のことも可愛がり、また従姉が私を可愛がってくれるのでとても喜んでいた。いつも従姉にお金を預けて私に似合うものを選んでやってと、すこし小遣いも渡して、とても頼りにしていた。私にとっても母にとっても「大好きなお姉さん」だった従姉は、なんと22歳で嫁にいってしまった。披露宴に出た母が帰宅するなり、「この世の中にあんな可愛らしい花嫁さんやはるやろか。ほんまにきれいやった。可愛らしかった。T君(=昭和的美男子のダンナ)も凛々しいてタキシードよう似合うて、男前やったわ、お人形さんみたいな新郎新婦やったわ、ホンマにきれいなもん見せてもろたわ」と絶賛の嵐だったのを思い出す。
私以上に母もMちゃんYちゃん姉妹を可愛がった。年頃になった二人をいつも心配していた。Yちゃんの結婚には大喜びしたし、今度のMちゃんの慶事にも顔をほころばせた。早くもおめでただと聞いても動じることなく「そら、なによりやんか、よかったよかった」。だって自分の娘はいわゆる未婚の母だもんね、デキ婚がどないしたん、てなもんですわ(笑)。
弟の反応が面白かった。弟も、私に負けず劣らず、玉のようなM姫を舐めるように可愛がったクチである。
「Mちゃん結婚決まったんやて」
「ほお。そら、よかった。エエ歳やったしなあ、うん」
「ほんで、すでにおめでたやって」
「なにっ」
「9月に生まれんねんて」
「……たくもう」
「お相手やけどな」
「おう」
「ひとまわり年上やて」
「……ぬぁにっっっ……」
「バツイチやて」
「(無言)」
「でも前の奥さんとの間には子どもなかってんて」
「(無言)」
「まあいろいろあるけど、きまってよかったやんなあ」
「……許さん」
「へ?」
「許さんぞ、そいつ。どこのおっさんやねん。ワシと三つほどしか違わへんやんけ」
「アンタこの際関係ないやん(笑)」
「なんつうこっちゃねん。ほかの誰がどんな男の嫁になってもええけどな、なんでよりによってMがそんな目に遭わなあかんねん」
「アンタ親父か」
「ああもう、まったくもう」
「恋愛結婚やしな、いちおう。人身売買ちゃうし」
「許さんっ」
というわけで、親族一同から玉のように愛でられたMちゃんは、晴れてもうすぐ母になるのだ。男の子だとわかっているらしいが、きっと、Mちゃんの父に似て昭和的美男子なクラシックイケメンが誕生するのだ。楽しみだなあ。
「赤ちゃん見せにきてや、ってMちゃんにいうといてな。あんたもたいへんやけど、また一緒にウチ来てな」
Mちゃんが訪ねてくれた日はデイサービスの日だったので、会い損ねた母は従姉に電話をして大事にしいや、大事にしいて言うてや、と繰り返していた。
子どもが生まれるって、本当に素敵なことだ。
素晴しいことだ。
全身全霊で、祝いたい。
来月7日が予定日だ。
Mちゃんは私が高校2年生の時に生まれた。翌年にはその妹、Yちゃんも生まれた。すでに高校生活に飽き飽きしていた私は宝石のような赤子の誕生に宝くじにでも当たったかのように有頂天になり、週末を待ちかねて従姉の家を訪ね、ひとしきり赤ん坊の相手をして遊んだ。従姉はとても美人で、ダンナも昭和な色男で(笑)、当然のことながら娘たちは二人とも器量よしだ。遊びに行くたび愛らしさが増し、目の中に入れても痛くないとはこのことだぞ、とこれじゃあまるで初孫を見守るジイジ・バアバの心境だけど、ほんとうに、その成長に立ち会える幸せを存分に味わった。
そのMちゃんが、お母さんになる。なんだか感無量だ。
先に結婚したのはYちゃんだった。年下のダーリンはYちゃんにメロメロで(笑)献身の限りを尽くしているらしい(笑)。「ほんま、ええ婿殿やけど、ちょっと痛々しいな……と思う時、あるわ。ははは」と笑うのは従姉のダンナ。そんなYちゃん夫婦にはまだ子どもがなく、バリバリ働いていてまったく結婚のケの字もなさそうだったMちゃんが突如結婚すると言ったと思ったら妊娠も判明。Yちゃん夫婦による初孫のプレゼントを心待ちにしていた従姉夫婦はさぞかし仰天しただろうな、どんな顔してMちゃんから話を聞いたのだろう、と私は半ば面白がりながら、事の顛末を聞いた。
Mちゃんが30代半ばにさしかかり、妊娠・出産のリスクが高まることが従姉にとってはいちばんの気がかりだったという。「あんまり口うるそう言いとうなかったけど、子どもは早よ産んだほうがええねん、好きな人がいたら仕事は二の次にして結婚しい、って何回言うたかわからんわ。ほな突然両方来た。もう、かなんわ」と諦め顔で話す従姉。Mちゃんの伴侶となるのはひとまわり年上の働き盛りの40代。「お互いに前から知り合ってたけど、そういう仲になったんはつい最近で、つきあい始めてすぐ結婚する気になったんやて」(従姉)
ふうん。人の縁ってわからないものだねえ。
この従姉は私のことを小さい頃から可愛がってくれ、まだひとりでは行けないところによく連れていってくれた。ゴジラ対モスラ、とかではない恋愛ものの洋画を初めて観にいったのは従姉とだった。ネックレスとか、ハンドバッグとか、ちょっと大人な店には従姉に連れていってもらった。私の母は、自分の兄嫁にあたるこの従姉の母親にたいへんよくしてもらっていたので、当然この従姉のことも可愛がり、また従姉が私を可愛がってくれるのでとても喜んでいた。いつも従姉にお金を預けて私に似合うものを選んでやってと、すこし小遣いも渡して、とても頼りにしていた。私にとっても母にとっても「大好きなお姉さん」だった従姉は、なんと22歳で嫁にいってしまった。披露宴に出た母が帰宅するなり、「この世の中にあんな可愛らしい花嫁さんやはるやろか。ほんまにきれいやった。可愛らしかった。T君(=昭和的美男子のダンナ)も凛々しいてタキシードよう似合うて、男前やったわ、お人形さんみたいな新郎新婦やったわ、ホンマにきれいなもん見せてもろたわ」と絶賛の嵐だったのを思い出す。
私以上に母もMちゃんYちゃん姉妹を可愛がった。年頃になった二人をいつも心配していた。Yちゃんの結婚には大喜びしたし、今度のMちゃんの慶事にも顔をほころばせた。早くもおめでただと聞いても動じることなく「そら、なによりやんか、よかったよかった」。だって自分の娘はいわゆる未婚の母だもんね、デキ婚がどないしたん、てなもんですわ(笑)。
弟の反応が面白かった。弟も、私に負けず劣らず、玉のようなM姫を舐めるように可愛がったクチである。
「Mちゃん結婚決まったんやて」
「ほお。そら、よかった。エエ歳やったしなあ、うん」
「ほんで、すでにおめでたやって」
「なにっ」
「9月に生まれんねんて」
「……たくもう」
「お相手やけどな」
「おう」
「ひとまわり年上やて」
「……ぬぁにっっっ……」
「バツイチやて」
「(無言)」
「でも前の奥さんとの間には子どもなかってんて」
「(無言)」
「まあいろいろあるけど、きまってよかったやんなあ」
「……許さん」
「へ?」
「許さんぞ、そいつ。どこのおっさんやねん。ワシと三つほどしか違わへんやんけ」
「アンタこの際関係ないやん(笑)」
「なんつうこっちゃねん。ほかの誰がどんな男の嫁になってもええけどな、なんでよりによってMがそんな目に遭わなあかんねん」
「アンタ親父か」
「ああもう、まったくもう」
「恋愛結婚やしな、いちおう。人身売買ちゃうし」
「許さんっ」
というわけで、親族一同から玉のように愛でられたMちゃんは、晴れてもうすぐ母になるのだ。男の子だとわかっているらしいが、きっと、Mちゃんの父に似て昭和的美男子なクラシックイケメンが誕生するのだ。楽しみだなあ。
「赤ちゃん見せにきてや、ってMちゃんにいうといてな。あんたもたいへんやけど、また一緒にウチ来てな」
Mちゃんが訪ねてくれた日はデイサービスの日だったので、会い損ねた母は従姉に電話をして大事にしいや、大事にしいて言うてや、と繰り返していた。
子どもが生まれるって、本当に素敵なことだ。
素晴しいことだ。
全身全霊で、祝いたい。
2014年7月6日日曜日
Les frères, les sœurs, les enfants
「占出さんが山一番やて。ほな、ことしはみなお産が軽うなるわ」
夕刊の一面を見て母がつぶやいた。
祇園祭の神事が7月1日から始まっている。
2日には巡行順を決めるくじ取り式があり、「占出山」(うらでやま)が山一番を引いた。
安産祈願の神を祀っているとして、古来高貴な身分の女性たちの信仰を集めたとして人気の山である。氏子の与るご利益は多々あれど、母の言うように、その年に一番を引いた山からはとりわけ恩恵をたくさん受けるのである。だから、妊婦さんはみな「ことしはなんにも心配いらへんわ」(母)。
だといいけどな。
今朝も住宅火災で幼児が焼け死ぬというニュースがあったが、高齢者人口が増えるというニュースのいっぽう、小さな命が不条理なかたちで奪われる例があとを断たない。書店や図書館に行くと、「イケてるイクメン」「愛のパパ料理」といった、近頃とみに家事育児参加の著しい男子たちを取材した雑誌や、あるいは男子自身によるハウツー本、料理本などがずらりと並ぶ。最近はお弁当本が人気のようだ。もう何年も前から、家族で連れだって歩いている時に子どもをだっこしたりベビーカーを押したりする男の姿は、妻と並んで歩くという形でならあったが、最近よく目にするのは父親だけが子連れで歩いているというパターンだ。幼い子を胸に抱いてその子とだけの会話の世界にとっぷり浸かっている父。ひとりを片腕に抱き、もうひとりの手をつなぎ、歌を口ずさみながら散歩する父。ダブルサイズのベビーカーに双児の赤ん坊を乗せ、そばをちょろちょろする上の子をたしなめながら歩く父。そんな父子の様子を見かけることも珍しくなくなった。
こんなに夫が家事や育児を積極的にしてくれるのなら、妻は存分にキャリアを描くことができ、不安なく第一子に続いて第二子、第三子と産もうという気に……なるというほど、世の中は単純で生易しくはない。ある家庭では実現可能なことが、別の家庭ではとうてい不可能であったり、夫婦で役割を分担して相互の負担を軽減する努力をしていたとしても、肝腎の妊娠にたどりつかない、あるいは、予算が立たなくて諦める。ただ、欲しくても子どもを持てない夫婦は昔からいたが、そもそも子どもを欲しくない、という夫婦または単身者が増えているという。
デイサービスで知り合う高齢者仲間とはついつい身の上話や若い頃の話になるという。母は「若手」なので「アンタ、うちの末の妹と同い年やわあ」と90代の「おねえさま」からいわれたりするらしい。母の世代あたりは少なくとも兄弟姉妹が5人以上いた。母は8人(内2人は早世)兄弟姉妹の末っ子だ。嫁入り支度をしてくれたのは十以上も年の離れた兄嫁たちだったと言って笑う。
私と弟の間に、ほんとうはもうひとり、母は身ごもったそうだ。流れてしまったが、母は今でも彼岸の墓参のたびに、水子供養を忘れない。しかし、流れた赤子のことじたいを口にすることはあまりなかった。同様の経験をもつ女性がデイ仲間にいたのだろうか。子どもの話をするうちに水子のことまで及んだのだろうか。いつだったかデイから帰宅して、昔流れた赤子のことばかりをつぶやき続けた日があった。
「かわいそうなことした」
「生まれてたらどんな子になってたやろ」
高慢で傲慢で偏見の強い姉と、理屈っぽく説教臭くこれまた偏見の強い弟に挟まれて、きっとストレス耐性の高い図太い人間に育ったのではないか。
いや、しかし、生まれてこなくて正解だったかも(笑)
「生まれとうても生まれてこれへん子もいるのに」
悲しいニュースを見聞きするたび母が溜め息をつく。母はわりと世間に無関心で、やいのやいのとみなが大騒ぎしているネタもほぼ知らない。小さな事件などは新聞記事を追っているはずなのにほとんど頭に入っていない。今うちにはラジオしかないが、テレビがあった頃からそんな調子だった。しかし、いま、同じような時代を生きてきたご婦人たちとの会話を通じて昔の記憶が掘り起こされている。自分の経験とリンクするような事件や話題には、いつまでもいつまでも、もつれてほどけない糸をもてあそぶようにして、食いついている。
占出さんのご利益が、すべてのプレママさんに行き渡るといいな。
そして、子どもをもちたい人がためらいなくもつことができ、子どもをもたないひとも後ろめたさなど感じないですむように、山鉾の神さんによう拝まんとあかんね。
夕刊の一面を見て母がつぶやいた。
祇園祭の神事が7月1日から始まっている。
2日には巡行順を決めるくじ取り式があり、「占出山」(うらでやま)が山一番を引いた。
安産祈願の神を祀っているとして、古来高貴な身分の女性たちの信仰を集めたとして人気の山である。氏子の与るご利益は多々あれど、母の言うように、その年に一番を引いた山からはとりわけ恩恵をたくさん受けるのである。だから、妊婦さんはみな「ことしはなんにも心配いらへんわ」(母)。
だといいけどな。
今朝も住宅火災で幼児が焼け死ぬというニュースがあったが、高齢者人口が増えるというニュースのいっぽう、小さな命が不条理なかたちで奪われる例があとを断たない。書店や図書館に行くと、「イケてるイクメン」「愛のパパ料理」といった、近頃とみに家事育児参加の著しい男子たちを取材した雑誌や、あるいは男子自身によるハウツー本、料理本などがずらりと並ぶ。最近はお弁当本が人気のようだ。もう何年も前から、家族で連れだって歩いている時に子どもをだっこしたりベビーカーを押したりする男の姿は、妻と並んで歩くという形でならあったが、最近よく目にするのは父親だけが子連れで歩いているというパターンだ。幼い子を胸に抱いてその子とだけの会話の世界にとっぷり浸かっている父。ひとりを片腕に抱き、もうひとりの手をつなぎ、歌を口ずさみながら散歩する父。ダブルサイズのベビーカーに双児の赤ん坊を乗せ、そばをちょろちょろする上の子をたしなめながら歩く父。そんな父子の様子を見かけることも珍しくなくなった。
こんなに夫が家事や育児を積極的にしてくれるのなら、妻は存分にキャリアを描くことができ、不安なく第一子に続いて第二子、第三子と産もうという気に……なるというほど、世の中は単純で生易しくはない。ある家庭では実現可能なことが、別の家庭ではとうてい不可能であったり、夫婦で役割を分担して相互の負担を軽減する努力をしていたとしても、肝腎の妊娠にたどりつかない、あるいは、予算が立たなくて諦める。ただ、欲しくても子どもを持てない夫婦は昔からいたが、そもそも子どもを欲しくない、という夫婦または単身者が増えているという。
デイサービスで知り合う高齢者仲間とはついつい身の上話や若い頃の話になるという。母は「若手」なので「アンタ、うちの末の妹と同い年やわあ」と90代の「おねえさま」からいわれたりするらしい。母の世代あたりは少なくとも兄弟姉妹が5人以上いた。母は8人(内2人は早世)兄弟姉妹の末っ子だ。嫁入り支度をしてくれたのは十以上も年の離れた兄嫁たちだったと言って笑う。
私と弟の間に、ほんとうはもうひとり、母は身ごもったそうだ。流れてしまったが、母は今でも彼岸の墓参のたびに、水子供養を忘れない。しかし、流れた赤子のことじたいを口にすることはあまりなかった。同様の経験をもつ女性がデイ仲間にいたのだろうか。子どもの話をするうちに水子のことまで及んだのだろうか。いつだったかデイから帰宅して、昔流れた赤子のことばかりをつぶやき続けた日があった。
「かわいそうなことした」
「生まれてたらどんな子になってたやろ」
高慢で傲慢で偏見の強い姉と、理屈っぽく説教臭くこれまた偏見の強い弟に挟まれて、きっとストレス耐性の高い図太い人間に育ったのではないか。
いや、しかし、生まれてこなくて正解だったかも(笑)
「生まれとうても生まれてこれへん子もいるのに」
悲しいニュースを見聞きするたび母が溜め息をつく。母はわりと世間に無関心で、やいのやいのとみなが大騒ぎしているネタもほぼ知らない。小さな事件などは新聞記事を追っているはずなのにほとんど頭に入っていない。今うちにはラジオしかないが、テレビがあった頃からそんな調子だった。しかし、いま、同じような時代を生きてきたご婦人たちとの会話を通じて昔の記憶が掘り起こされている。自分の経験とリンクするような事件や話題には、いつまでもいつまでも、もつれてほどけない糸をもてあそぶようにして、食いついている。
占出さんのご利益が、すべてのプレママさんに行き渡るといいな。
そして、子どもをもちたい人がためらいなくもつことができ、子どもをもたないひとも後ろめたさなど感じないですむように、山鉾の神さんによう拝まんとあかんね。
2014年6月29日日曜日
"C'est peut-être grâce aux gâteaux que tu fais pour moi."
先週、糖尿病の主治医を訪れ、月イチの定期検診を受けた。
血液検査と尿検査(尿は自宅採取を持参)。検査業者に回して得られる詳細な結果は次回にしかわからないが、ヘモグロビンA1c(=HbA1c 〈NGSP〉%)と血糖値は即時に数値が出る。
血液採取後、少し待機。
改めて呼ばれて診察室に入る。
「下がりました。下がりましたよ!」
開口一番、弾んだ声で主治医が母を迎えた。
昨秋以降8か月の間ずっと下がらなかった数値がやっと下がったのである。
この日の測定で、8%以上が続いていたHbA1cが7%台に下がり、楽に200以上、250以上を出していた血糖値は180だった。
測定器の気まぐれか故障じゃないのか。冗談ではなく私はそう思った。精確な値だとしたら、食生活改善の効果というのはこれほどまでにゆっくりとしか目に見えてこないものなんだな。
8か月以前はどうだったのかというと、6・7・8月と少し数値が改善した時期があったのだ。なぜその時期下がっていたのかというと、これは推測だが、4〜5月の1か月の入院期間、母は病院のいわゆる病院食、しかも糖尿病食をいただいていたので、その効果が絶大だったのである。メニューだけ見ると普通の食事なのだが、味つけや調味料の使いかた、そして全体の分量がとてつもなく「控えめ」なのである。ただ母は、朝・昼・晩の食事そのものは前から量は多くないので、病院での食事に不平はいわなかった。
母の糖尿は今始まった話ではないし、娘も糖質制限をしていたので、我が家の食事はここ数年、いたって低カロリー低糖質、超ヘルシーだったので、母は家での食事とのギャップはさほど感じなかったのではないだろうか。
ただし、である。母の場合、問題は間食である。しかも、その摂りかたが凄まじかったのである。
ここ2〜3年、私も弟たちも、たまには母にもデザートを、と思って糖質オフの菓子を買ってきたり、材料を考慮して手づくりしたり、と工夫しておやつを与えてきたのだが、とにかくコテコテに甘いものを好む人なので、私たちが用意するものではもの足りなかったのであろう。頻繁にご近所の和菓子屋に出かけては、あるいは最寄りのコンビニに通っては、あんこたっぷりのまんじゅうとかカスタードとホイップのダブルシュークリームとか、そんな、日頃のヘルシー食生活を「御破算」に帰すような、おやつをお腹いっぱいに食べる習慣がいつの間にかついていたのである。そのせいで、母の血糖値検査の結果はすこぶる悪かった。
ところが、入院中は間食もなにも、3度の糖尿病食以外にはない。検査があるとその前夜や朝は食事抜きだ。母は、かなりの欠乏感を覚えていたに違いない。だが幸いにも、そんな修行のような日々を送った影響は大きかった。退院後再びジャンクデザートに溺れる毎日に戻っても、「健康」方向に振れた針はしばらくそこに留まっていてくれたのだ。退院後再開したかかりつけ医のもとでの月イチ血液検査では、入院以前のあれはなんだったんだと思うほど、良好な数値が3度ほど続いた。
しかし、そこまでだった。秋口からHbA1c、血糖値ともに上昇を示し、血糖を抑える薬を変えても増やしても、効果は出ないのであった。再び食べ始めたジャンクデザートの影響に違いなかった。
「ご飯をもう少し減らしましょうか」「おやつはやめてくださいね」
あまり言いたくないんですけどねという表情をしたドクターが悲しげに忠告する。月イチ受診の慣例になってしまっていた。
*
4月以降、私が勤めを辞めて家に居るようになり、母の間食も原則手づくりしている。
大豆粉やおからをメインにしたマフィンやケーキ、ヨーグルトと煮リンゴ、豆腐の生クリームを添えたそば粉のパンケーキ、といった具合である。
甘いものがなにより好きな母にはもの足りないことこの上ないはずだ。もっと甘いものを食べたい食べたい食べたいと日々念じて生きているはずだ(笑)。しかし、ようやく数値が下がったと聞いて嬉しくないはずがない。味気ないおやつに我慢してきた甲斐があったと思ったかどうか。
「あんたがいつもつくってくれるおやつのおかげやなあ」
会計を待つ間、待合室で母がぽつりといった。
そうかもしれないが、それだけではない。
しかし、母が真面目にそう思ってくれるのなら嬉しいし、糖分たっぷりの市販のお菓子なんか食べずに私のつくるものだけを食べていようと「改心」してくれるならいい。
たぶん、リハビリデイサービスに通い始めたことも要因のひとつだ。
そして、おやつよりも三度の食事の内容のほうが大きいと思う。主食から徹底的に精白したものを除いている。おまけに大根のみじん切りをご飯に加えてかさを増している。母は1/2膳程度しか食べないが、その半分は玄米、1/4はマンナンご飯、1/4は大根である。
大根を加えるようになったのは今年に入ってからだが、玄米とマンナンご飯の混合主食はもう2年続けている。ようやく功を奏してきたということかもしれない。とにかく、母の体は反応が遅い。イラつかず根気づよく継続するのみ。おやつの力で今後も血糖値を下げていこう(笑)。
血液検査と尿検査(尿は自宅採取を持参)。検査業者に回して得られる詳細な結果は次回にしかわからないが、ヘモグロビンA1c(=HbA1c 〈NGSP〉%)と血糖値は即時に数値が出る。
血液採取後、少し待機。
改めて呼ばれて診察室に入る。
「下がりました。下がりましたよ!」
開口一番、弾んだ声で主治医が母を迎えた。
昨秋以降8か月の間ずっと下がらなかった数値がやっと下がったのである。
この日の測定で、8%以上が続いていたHbA1cが7%台に下がり、楽に200以上、250以上を出していた血糖値は180だった。
測定器の気まぐれか故障じゃないのか。冗談ではなく私はそう思った。精確な値だとしたら、食生活改善の効果というのはこれほどまでにゆっくりとしか目に見えてこないものなんだな。
8か月以前はどうだったのかというと、6・7・8月と少し数値が改善した時期があったのだ。なぜその時期下がっていたのかというと、これは推測だが、4〜5月の1か月の入院期間、母は病院のいわゆる病院食、しかも糖尿病食をいただいていたので、その効果が絶大だったのである。メニューだけ見ると普通の食事なのだが、味つけや調味料の使いかた、そして全体の分量がとてつもなく「控えめ」なのである。ただ母は、朝・昼・晩の食事そのものは前から量は多くないので、病院での食事に不平はいわなかった。
母の糖尿は今始まった話ではないし、娘も糖質制限をしていたので、我が家の食事はここ数年、いたって低カロリー低糖質、超ヘルシーだったので、母は家での食事とのギャップはさほど感じなかったのではないだろうか。
ただし、である。母の場合、問題は間食である。しかも、その摂りかたが凄まじかったのである。
ここ2〜3年、私も弟たちも、たまには母にもデザートを、と思って糖質オフの菓子を買ってきたり、材料を考慮して手づくりしたり、と工夫しておやつを与えてきたのだが、とにかくコテコテに甘いものを好む人なので、私たちが用意するものではもの足りなかったのであろう。頻繁にご近所の和菓子屋に出かけては、あるいは最寄りのコンビニに通っては、あんこたっぷりのまんじゅうとかカスタードとホイップのダブルシュークリームとか、そんな、日頃のヘルシー食生活を「御破算」に帰すような、おやつをお腹いっぱいに食べる習慣がいつの間にかついていたのである。そのせいで、母の血糖値検査の結果はすこぶる悪かった。
ところが、入院中は間食もなにも、3度の糖尿病食以外にはない。検査があるとその前夜や朝は食事抜きだ。母は、かなりの欠乏感を覚えていたに違いない。だが幸いにも、そんな修行のような日々を送った影響は大きかった。退院後再びジャンクデザートに溺れる毎日に戻っても、「健康」方向に振れた針はしばらくそこに留まっていてくれたのだ。退院後再開したかかりつけ医のもとでの月イチ血液検査では、入院以前のあれはなんだったんだと思うほど、良好な数値が3度ほど続いた。
しかし、そこまでだった。秋口からHbA1c、血糖値ともに上昇を示し、血糖を抑える薬を変えても増やしても、効果は出ないのであった。再び食べ始めたジャンクデザートの影響に違いなかった。
「ご飯をもう少し減らしましょうか」「おやつはやめてくださいね」
あまり言いたくないんですけどねという表情をしたドクターが悲しげに忠告する。月イチ受診の慣例になってしまっていた。
*
4月以降、私が勤めを辞めて家に居るようになり、母の間食も原則手づくりしている。
大豆粉やおからをメインにしたマフィンやケーキ、ヨーグルトと煮リンゴ、豆腐の生クリームを添えたそば粉のパンケーキ、といった具合である。
甘いものがなにより好きな母にはもの足りないことこの上ないはずだ。もっと甘いものを食べたい食べたい食べたいと日々念じて生きているはずだ(笑)。しかし、ようやく数値が下がったと聞いて嬉しくないはずがない。味気ないおやつに我慢してきた甲斐があったと思ったかどうか。
「あんたがいつもつくってくれるおやつのおかげやなあ」
会計を待つ間、待合室で母がぽつりといった。
そうかもしれないが、それだけではない。
しかし、母が真面目にそう思ってくれるのなら嬉しいし、糖分たっぷりの市販のお菓子なんか食べずに私のつくるものだけを食べていようと「改心」してくれるならいい。
たぶん、リハビリデイサービスに通い始めたことも要因のひとつだ。
そして、おやつよりも三度の食事の内容のほうが大きいと思う。主食から徹底的に精白したものを除いている。おまけに大根のみじん切りをご飯に加えてかさを増している。母は1/2膳程度しか食べないが、その半分は玄米、1/4はマンナンご飯、1/4は大根である。
大根を加えるようになったのは今年に入ってからだが、玄米とマンナンご飯の混合主食はもう2年続けている。ようやく功を奏してきたということかもしれない。とにかく、母の体は反応が遅い。イラつかず根気づよく継続するのみ。おやつの力で今後も血糖値を下げていこう(笑)。
2014年6月18日水曜日
"Je ne sais pas si j'étais trop fatiguée."
先月末のこと。デイサービスのスタッフから「たいへんお熱が高いのですが」と電話がかかった。
デイサービスヘ行くと、着いてすぐにまずヴァイタルチェックがある。体温、血圧、脈拍を測る。母はいつも体温が高めである。平熱が37度なんです、ということにしているが、ほんとうは平熱は36度台のはずだ。送迎されているとはいえデイサービスへ到着するまでの運動量は母にとって長距離を走ったに等しいので、有酸素運動過多によって体温も上がっていると思われるのである。
デイの連絡帳にはヴァイタルチェックが記録されていて、いつも母は37度あたりを記録されている。
だが、この日、ヴァイタルチェックで39度を超えているという。
「え? なんででしょうね。様子はどうですか」
「ご様子はお元気なんですけど……念のため2回は測りましたが、やっぱり39度を超えてまして」
デイサービスの送迎車は毎回8時50分に我が家へ到着する。毎回母は10分くらい前から上がり框に座ってスタッフが来るのを待つ。この日もいつものように準備をして、機嫌よく送迎車に乗って出かけたのだったが。
保育園と同じで、病気になったら預かってはもらえない(笑)。ほかの利用者にうつるのを防がなくてはいけないし、家族が困るのはわかっているけど置いてはおけないのである。違うのは、介護サービスは施設側が送り届けてくれることである。
「お医者さんに行かれるのでしたら、そこまでお送りしますよ」
それなら、とかかりつけ医の所在地を説明し、そこまで連れてきてもらうことにした。
まだ10時になっていなかった。母がデイへ出かける日に外出予定を寄せて集めて(笑)こなすのだが、この日の予定はすべてチャラになってしまった。参ったなあ、と思わず口をついて出た。
診療所ヘ行くと、デイの送迎車がちょうど到着したところだった。運転は朝迎えに来てくれた男性スタッフだった。
「すみません、お手間とりまして。せっかく迎えに来てもろたのに」
「いいえ、そういえば今朝はいつにもまして足許ふらついてるなあ、と思たんです」
「そうですか」
足がふらふらなのはいつものことだ。しかし、「いつも」とのほんのわずかな違いを察知できるのは、こうした第三者的な立場でありなおかつ恒常的に対象を見ている人ならでは、といっていいのだろう。同居しているから、いちばん近くにいるからすべて関知しているとは限らない。朝食の途中で何度も椅子からずり落ちそうになったなそういえば、と、「いつにもまして足許ふらついてる」というスタッフの言葉を聞いて初めて思い至ったが、ほんとうならそのときに私がなんか今日は様子がおかしいと気づくべきなんだろうし、ずり落ちそうになる母を数回にわたって支え起こしていながら体がいつもより熱いと気づくはずなんだろう。「近すぎる」と、肝腎な時に限って盲いてしまう。
糖尿病のかかりつけ医とは月イチ検診で会っている。母の病状はよくもなっていないが悪化もしていない。つまり安定しているので、血糖値検査と投薬調整だけで、実をいうとなんとなく受診の意味に疑問符を振りたくなることしばしばなんだが、つねづね診てもらっていないと、この日のように突発的な発熱とか病変とかがあった時に、やはり困るのであろう。「急に高い熱が出たんやねえ、どうしたんやろうねえ」と主治医はにこやかな表情で母に話しかけた。娘がかかっていた小児科医とおんなじだ、と思った。臨床医は優しい言葉と柔和な笑顔がつくれないと務まらない。よほど腕がいい場合を除いて、無愛想で乱暴な言葉遣いだと評判は地に落ち客(患者)の足は遠のく。この医師はそういう意味では申し分ない部類に入ると思うが、若干思い切りが悪いような気がする。躊躇しがちであったり、あるいは様子を見ようといって長期間結論を出さずにいたり、こうしよう、いややっぱりこうしようと指示や方針を変えたり……大なり小なりどんな医師にもある傾向だけど、過ぎると大事な時に判断を誤ってくれちゃいそうな嫌な予感に導かれる。
ま、それはそれとして。
主治医は「つい最近インフルエンザの患者さんもいたのでね、その可能性もあるし検査しましょう」「お年寄りは肺炎が怖いから胸のレントゲンも撮りましょう」あれも、これもと車検チェックシートを確認するみたいに急に高熱を出す原因をつぶしていった。つまり、母にはそのような予兆は見えていなかったし、月イチの検診結果はいつも穏やかであったから、急な発熱は外部因子によるはずと思ったに違いないのだった。
しかし私は、前夜からの母の様子、ここ数日の母の行動などを、記憶をたどりながら確かめていくうちに発熱の理由をつきとめた。インフルエンザに感染などするはずがない、私以外とはほとんど接触していないのだから。咳は出ていないし、呼吸もいたって健全であるから肺炎も考えられない。
発熱の原因は、母特有の気疲れと、体力の消耗だ。
5月、母にとっての大きなイベントがいくつかあった。
1)ショートステイを体験した。3泊4日。
2)リハビリデイサービスに通い始めた。
3)ご近所に慶事があったので、ある大安の日曜日、ご近所と誘い合わせてそのお宅を訪問しお祝いにした。
4)親戚内にも慶事があり、ある大安の土曜日、じぶんのきょうだいたちとその親戚を訪ね、お祝いした。
とくに(3)と(4)はたいへん非日常的なことなので、ずっとずっと以前から頻繁にその話題をもちだしてはどうしようこうしようああしようとひとりで問題提起してはひとりで議論しひとりで合点していた。5月の後半は気疲れMAXであったろう。
「たっぷり眠れば治る」と直感した。
主治医は解熱剤のほかに抗菌薬も出してくれたが、たぶん、ぐっすり寝れば熱は下がる。まあしかし、処方された薬はおとなしく全部服用しましょう。
予想どおり、その日の夕刻には母の体温は「平熱」の37度近くまで下がった。解熱剤の効果もあったと思うのだが、帰宅してすぐまず薬を飲み、少し横になりよし、という私の言葉にしたがってパジャマに着替えてベッドに横たわったとたん、ぐーぐーと眠りこけ、昼食の時間になっても起きないで眠り続けた。夕方5時を過ぎてようやく目を開いたので一度起きるように声をかけた。熱を測ると37.5度までさがっており、こしらえた卵粥をペロリとたいらげた。そのあとまた横になり、続いてごおおおおーーーといびきをかいて激しく眠りこけた。夜半に一度起きたときはさらに体温が下がっていた。このぶんだと明日はたぶん通常どおり動こうとするだろう、と私は思った。
翌朝、母はいつものとおりに起きて着替え、ダイニングまで歩き、いつもの椅子にてん、と座った。発熱でさらに体力を失ったようにも見えるが、横になっていた時間が長過ぎて、「体がおかしいなるわ」と感じ、これ以上寝るのは止めようと思ったらしい。
「疲れたんやねえ。たくさんせなあかんことあったし」
「疲れたんやろか」
「そうやで。ぎょうさん寝たら、熱下がったやん。疲労回復できたんや」
「疲れるようなことしたかいなあ」
「お出かけ、増えたし。お祝いごとで気いも遣たし」
「そんなことできつう疲れたんか……自分では全然わからへん、キツう疲れてたかどうやなんて」
「自分がしんどいのかどうかがわからんようになったら、人間おしまいやで(笑)」
「ほんまやなあ」
熱は下がったが、けっきょくこの週はデイサービスをすべて休んだ。加えて、やはり多少動きが鈍くなって諸動作が危なっかしい。そんなわけでほぼつきっきりでそばにいなくてはならなかった。特別に用事が増えたわけではなかったが、自由に動き回れなかったのは少々(かなり)キツかった。私も疲労を溜め込んで、週の終わりには相当バテていた(笑)。いまから対策練らないと、ヤバいな。
デイサービスヘ行くと、着いてすぐにまずヴァイタルチェックがある。体温、血圧、脈拍を測る。母はいつも体温が高めである。平熱が37度なんです、ということにしているが、ほんとうは平熱は36度台のはずだ。送迎されているとはいえデイサービスへ到着するまでの運動量は母にとって長距離を走ったに等しいので、有酸素運動過多によって体温も上がっていると思われるのである。
デイの連絡帳にはヴァイタルチェックが記録されていて、いつも母は37度あたりを記録されている。
だが、この日、ヴァイタルチェックで39度を超えているという。
「え? なんででしょうね。様子はどうですか」
「ご様子はお元気なんですけど……念のため2回は測りましたが、やっぱり39度を超えてまして」
デイサービスの送迎車は毎回8時50分に我が家へ到着する。毎回母は10分くらい前から上がり框に座ってスタッフが来るのを待つ。この日もいつものように準備をして、機嫌よく送迎車に乗って出かけたのだったが。
保育園と同じで、病気になったら預かってはもらえない(笑)。ほかの利用者にうつるのを防がなくてはいけないし、家族が困るのはわかっているけど置いてはおけないのである。違うのは、介護サービスは施設側が送り届けてくれることである。
「お医者さんに行かれるのでしたら、そこまでお送りしますよ」
それなら、とかかりつけ医の所在地を説明し、そこまで連れてきてもらうことにした。
まだ10時になっていなかった。母がデイへ出かける日に外出予定を寄せて集めて(笑)こなすのだが、この日の予定はすべてチャラになってしまった。参ったなあ、と思わず口をついて出た。
診療所ヘ行くと、デイの送迎車がちょうど到着したところだった。運転は朝迎えに来てくれた男性スタッフだった。
「すみません、お手間とりまして。せっかく迎えに来てもろたのに」
「いいえ、そういえば今朝はいつにもまして足許ふらついてるなあ、と思たんです」
「そうですか」
足がふらふらなのはいつものことだ。しかし、「いつも」とのほんのわずかな違いを察知できるのは、こうした第三者的な立場でありなおかつ恒常的に対象を見ている人ならでは、といっていいのだろう。同居しているから、いちばん近くにいるからすべて関知しているとは限らない。朝食の途中で何度も椅子からずり落ちそうになったなそういえば、と、「いつにもまして足許ふらついてる」というスタッフの言葉を聞いて初めて思い至ったが、ほんとうならそのときに私がなんか今日は様子がおかしいと気づくべきなんだろうし、ずり落ちそうになる母を数回にわたって支え起こしていながら体がいつもより熱いと気づくはずなんだろう。「近すぎる」と、肝腎な時に限って盲いてしまう。
糖尿病のかかりつけ医とは月イチ検診で会っている。母の病状はよくもなっていないが悪化もしていない。つまり安定しているので、血糖値検査と投薬調整だけで、実をいうとなんとなく受診の意味に疑問符を振りたくなることしばしばなんだが、つねづね診てもらっていないと、この日のように突発的な発熱とか病変とかがあった時に、やはり困るのであろう。「急に高い熱が出たんやねえ、どうしたんやろうねえ」と主治医はにこやかな表情で母に話しかけた。娘がかかっていた小児科医とおんなじだ、と思った。臨床医は優しい言葉と柔和な笑顔がつくれないと務まらない。よほど腕がいい場合を除いて、無愛想で乱暴な言葉遣いだと評判は地に落ち客(患者)の足は遠のく。この医師はそういう意味では申し分ない部類に入ると思うが、若干思い切りが悪いような気がする。躊躇しがちであったり、あるいは様子を見ようといって長期間結論を出さずにいたり、こうしよう、いややっぱりこうしようと指示や方針を変えたり……大なり小なりどんな医師にもある傾向だけど、過ぎると大事な時に判断を誤ってくれちゃいそうな嫌な予感に導かれる。
ま、それはそれとして。
主治医は「つい最近インフルエンザの患者さんもいたのでね、その可能性もあるし検査しましょう」「お年寄りは肺炎が怖いから胸のレントゲンも撮りましょう」あれも、これもと車検チェックシートを確認するみたいに急に高熱を出す原因をつぶしていった。つまり、母にはそのような予兆は見えていなかったし、月イチの検診結果はいつも穏やかであったから、急な発熱は外部因子によるはずと思ったに違いないのだった。
しかし私は、前夜からの母の様子、ここ数日の母の行動などを、記憶をたどりながら確かめていくうちに発熱の理由をつきとめた。インフルエンザに感染などするはずがない、私以外とはほとんど接触していないのだから。咳は出ていないし、呼吸もいたって健全であるから肺炎も考えられない。
発熱の原因は、母特有の気疲れと、体力の消耗だ。
5月、母にとっての大きなイベントがいくつかあった。
1)ショートステイを体験した。3泊4日。
2)リハビリデイサービスに通い始めた。
3)ご近所に慶事があったので、ある大安の日曜日、ご近所と誘い合わせてそのお宅を訪問しお祝いにした。
4)親戚内にも慶事があり、ある大安の土曜日、じぶんのきょうだいたちとその親戚を訪ね、お祝いした。
とくに(3)と(4)はたいへん非日常的なことなので、ずっとずっと以前から頻繁にその話題をもちだしてはどうしようこうしようああしようとひとりで問題提起してはひとりで議論しひとりで合点していた。5月の後半は気疲れMAXであったろう。
「たっぷり眠れば治る」と直感した。
主治医は解熱剤のほかに抗菌薬も出してくれたが、たぶん、ぐっすり寝れば熱は下がる。まあしかし、処方された薬はおとなしく全部服用しましょう。
予想どおり、その日の夕刻には母の体温は「平熱」の37度近くまで下がった。解熱剤の効果もあったと思うのだが、帰宅してすぐまず薬を飲み、少し横になりよし、という私の言葉にしたがってパジャマに着替えてベッドに横たわったとたん、ぐーぐーと眠りこけ、昼食の時間になっても起きないで眠り続けた。夕方5時を過ぎてようやく目を開いたので一度起きるように声をかけた。熱を測ると37.5度までさがっており、こしらえた卵粥をペロリとたいらげた。そのあとまた横になり、続いてごおおおおーーーといびきをかいて激しく眠りこけた。夜半に一度起きたときはさらに体温が下がっていた。このぶんだと明日はたぶん通常どおり動こうとするだろう、と私は思った。
翌朝、母はいつものとおりに起きて着替え、ダイニングまで歩き、いつもの椅子にてん、と座った。発熱でさらに体力を失ったようにも見えるが、横になっていた時間が長過ぎて、「体がおかしいなるわ」と感じ、これ以上寝るのは止めようと思ったらしい。
「疲れたんやねえ。たくさんせなあかんことあったし」
「疲れたんやろか」
「そうやで。ぎょうさん寝たら、熱下がったやん。疲労回復できたんや」
「疲れるようなことしたかいなあ」
「お出かけ、増えたし。お祝いごとで気いも遣たし」
「そんなことできつう疲れたんか……自分では全然わからへん、キツう疲れてたかどうやなんて」
「自分がしんどいのかどうかがわからんようになったら、人間おしまいやで(笑)」
「ほんまやなあ」
熱は下がったが、けっきょくこの週はデイサービスをすべて休んだ。加えて、やはり多少動きが鈍くなって諸動作が危なっかしい。そんなわけでほぼつきっきりでそばにいなくてはならなかった。特別に用事が増えたわけではなかったが、自由に動き回れなかったのは少々(かなり)キツかった。私も疲労を溜め込んで、週の終わりには相当バテていた(笑)。いまから対策練らないと、ヤバいな。
2014年5月27日火曜日
"Ça marche pas."
今月から母は週1回のペースで「リハビリデイサービス」なるものに通い始めた。
8時45分に送迎の車がくる。たいてい、車には先にひとりかふたり、老婦人が乗っている。みなさん80代とおぼしき貫禄で、しかし溌剌としてらっしゃる。
「おはようございます、よろしくお願いします」
新米で若手の母はいつもそう言って車に乗る。ひとりでは乗れないので、よいしょ、と乗せてもらう。というより、体を押しこんでもらうというほうが正しいかな。
リハビリではない普通のデイサービスセンターでも母は「若手」である。周囲は80代後半から100歳。母は昨秋の誕生日でようやく77歳になった。90代の老婦人がたに比べたらひとまわり以上も若いのである。「若いなあ、まだこれからやなあ」と、口々に羨ましがられるそうだ。しかし、そういった80代後半以上の、お年を召してすっかり貫禄十分な老婦人たちよりずっと、母は年老いて見える。
すっかり背中が曲がってしまい、それなりの衣装を着ければ間違いなく魔法使いのおばあさんになれる。後ろからグレーテルに押されて頭からかまどに突っ込んで焼け死んでしまう魔女。だからさー、背筋、がんばってのばそうよ、母ちゃん。
そのリハビリデイには、フロアいっぱいにスポーツジムばりの高性能トレーニングマシンが10機、並んでいる。アームなんとか、レッグなんとか、という名称がついている。機能的にはスポーツジムにあるものと同じだが、器械のデザインが異なる。白基調で、丸みのあるやさしいデザインだ。マシンに取り囲まれるように、休憩のための椅子が幾つも並べられている。一部の壁面には薄型の映像モニターがはり付けられていて、高齢者向け体操の映像がずっと流れている。その前に立ち、あるいは座って、体操をするお年寄りもいる。歩行練習用の平行バーもある。隅には簡易ベッドが置かれていて、マッサージを受ける人、疲れて横になる人、あるいは運動をする人など、多用途に使われているようだった。
各自が思い思いに運動をしているようにも見えるが、このリハビリデイでは全員が声を揃えて数をカウントするので、「みんなで一緒にトレーニング」しているのである。休憩している人も、声を出すように促される。声を出すということはお年寄りにとって大きなリハビリになるらしい。一年前から通所している普通のデイサービスでも、よく歌を歌うそうだ。それは昭和の懐メロのこともあれば、子どもの頃よく歌った遊び歌や、文部省唱歌のこともあると、母が言っていた。「ものすご歌の上手な人が、やはんねん、大きな声で、きれいに歌わはる」
リハビリデイでは歌は歌わないが、このように、ひとアクションごとに、エクササイズの終わりになるとスタッフが「さあ数えましょう!」とかけ声を上げ、全員で10数える。数えたら、マシンを交代。スタッフに手助けされながら次のマシンに進む。
利用者には、自分でさっさと次の器械に移り、自分で負荷の加減を決めてさっさと進めることのできる人もいる。母は、手すりなどしっかり握る箇所がなければ立ち座りもできないので、マシンへの移動もスタッフに抱きかかえられるようにして行う。足にせよ腕にせよ、自分の意のままにはほとんどならないので、マシンに座るのも、からだの部位をセットしてもらうのも、トレーニングのし始めも、スタッフ任せだ。
今月の第1週目は、初日ということで全部のマシンをこなしたそうである。母の場合、マシンをたくさん使ったとか、エクササイズを長時間やったとかそういうこと以前の、数分ごとにあっちからこっちへ移動し、立ったり座ったりする、ということだけで相当な運動量だ。ふだん、家では座ったきり、ほぼ動かないのだから。
それと、非常に気疲れの激しい人なので、初めての場所、知らない人、そうした環境にいるというだけで初舞台に立つ新米役者のように緊張していたであろう。そういう気疲れのために発熱することは、まだ母がバリバリ活動していたときから頻繁にあったことだ。
終了後、送迎の車に乗って、12時半に帰宅。ダイニングの椅子に、抜け殻のようになって座っていた(笑)。へろへろに疲れた、と背中が語っていた(笑)。それでも、昼食はしっかり食べた。やはり運動はいい、させるべきだ、と思った。
リハビリデイでもらった、施設ロゴ入りのミニトートバッグをどの利用者も持参しているそうだ。これからはこのかばんで持っていくねん。そして私の顔を見ながら「みんな、名前つけたはるねん」と言った。はいはい、ネームタグ、つくらしてもらいます、ハイ。
第2週目は、母の体の不具合に合わせて少しずつトレーニングプログラムをつくっていくそうで、いくつかのマシンを重点的に使ったらしい。私は、大腿部と腹筋の強化を希望すると連絡帳に記入しておいた。
今いちばん危ないのは、椅子に静かに座れないことだ。重力に任せて、落ちるように腰掛ける。柔らかい椅子ならいいが、かたい場所でも同じように腰を「下ろす」のではなく文字どおりドタッと「落とす」ので、腰の骨にヒビが入らないかとヒヤヒヤする。亡くなった女優の森光子さんが、高齢になってもスクワットを欠かさなかったそうだが、なるほどと思う。スクワットで鍛えるのは太ももと腹筋、そして足の裏全体で踏ん張る力だ。母にはすべて、無い。逆に言えば、これらが鍛えられて必要十分に筋力があれば、身のこなしも軽やかになるはずなのだ。
ドタッと落としたあとは、その腰を上げることができない。ウチにいる場合、テーブルを両手でがっしりとつかみ、テーブルにへばりつき、しがみつき、テーブルを持ち上げるんじゃないかと思うほどすごい力でもう一度縁をつかみ直し、テーブルに吸い付くようにして、腰を持ち上げる。
座るのは「落下」に近いので一瞬だが、立つのには、何分もかかる。
いや、時間はいくらかかってもかまわない。もう急ぐ理由などないのだから、今さら時間短縮は期待していない。ただ、今の状態だと、立つ・座る動作に費やすエネルギーがものすごく大きいのだ。だから、今、普段の生活でも、朝、ベッドから立つ。トイレの便座に座り、立つ。台所へ来て椅子に座る。立ってコーヒーを淹れる。また座る。……こんなことの繰り返しだけで、母は、昼過ぎにはもう燃料切れ状態になる。夕方になる前に、足がふらつくようになり、何かにつかまっていようと体を支えていようと、膝から崩れて、悪いときには転倒する。
2回目のリハビリデイから帰った母は、どことなく元気がなさそうであった。
疲れたのかどうかを尋ねたら、「そんな疲れてへん」という。体力的に疲れたのではなく、若干意気消沈していたのであった。
「ぜんぜん、できひんかった」
「何ができひんかったん? 難しいこと、やらされたん?」
「むずかしないけどな、わたしは体がしゃんとならへんし、ちゃんとできひんねん」
「そやけど、器械に座って、足乗せたり、腕ひっかけたりしたらええのやろ。そんなんかて向こうの人が手伝うてくれはるんやろ」
「ちゃんと座らしてもろてもな、わたしは背中が伸びひんし、すぐうつむいてしまうしな、ちゃんとした運動にならへん」
「運動になってへんとか、いわれたん?」
「いわれてへん。いわれてへんけど、ぜんぜんできてへんことは、わかるさかい」
しょぼ〜ん。
あらあら。
イキイキはつらつとエクササイズに励む要介護老人たちが多い中で、やはり少し気後れしてしまっているようだ。
しょうがないやんか。全部ちゃんとできるんやったらべつに行かんでもいいやんか。できひんし、できるようになるために行くんやろ。
「そやなあ」
施設スタッフがつくったらしきペーパーカーネーションが、トートバッグの持ち手近く、私がつけておいたネームタグにくるくると巻きつけられていた。きれいやん、これ。
「こないだ母の日やったし、いうて、つけてくれはってん」
ようやく顔がほころんだ。
8時45分に送迎の車がくる。たいてい、車には先にひとりかふたり、老婦人が乗っている。みなさん80代とおぼしき貫禄で、しかし溌剌としてらっしゃる。
「おはようございます、よろしくお願いします」
新米で若手の母はいつもそう言って車に乗る。ひとりでは乗れないので、よいしょ、と乗せてもらう。というより、体を押しこんでもらうというほうが正しいかな。
リハビリではない普通のデイサービスセンターでも母は「若手」である。周囲は80代後半から100歳。母は昨秋の誕生日でようやく77歳になった。90代の老婦人がたに比べたらひとまわり以上も若いのである。「若いなあ、まだこれからやなあ」と、口々に羨ましがられるそうだ。しかし、そういった80代後半以上の、お年を召してすっかり貫禄十分な老婦人たちよりずっと、母は年老いて見える。
すっかり背中が曲がってしまい、それなりの衣装を着ければ間違いなく魔法使いのおばあさんになれる。後ろからグレーテルに押されて頭からかまどに突っ込んで焼け死んでしまう魔女。だからさー、背筋、がんばってのばそうよ、母ちゃん。
そのリハビリデイには、フロアいっぱいにスポーツジムばりの高性能トレーニングマシンが10機、並んでいる。アームなんとか、レッグなんとか、という名称がついている。機能的にはスポーツジムにあるものと同じだが、器械のデザインが異なる。白基調で、丸みのあるやさしいデザインだ。マシンに取り囲まれるように、休憩のための椅子が幾つも並べられている。一部の壁面には薄型の映像モニターがはり付けられていて、高齢者向け体操の映像がずっと流れている。その前に立ち、あるいは座って、体操をするお年寄りもいる。歩行練習用の平行バーもある。隅には簡易ベッドが置かれていて、マッサージを受ける人、疲れて横になる人、あるいは運動をする人など、多用途に使われているようだった。
各自が思い思いに運動をしているようにも見えるが、このリハビリデイでは全員が声を揃えて数をカウントするので、「みんなで一緒にトレーニング」しているのである。休憩している人も、声を出すように促される。声を出すということはお年寄りにとって大きなリハビリになるらしい。一年前から通所している普通のデイサービスでも、よく歌を歌うそうだ。それは昭和の懐メロのこともあれば、子どもの頃よく歌った遊び歌や、文部省唱歌のこともあると、母が言っていた。「ものすご歌の上手な人が、やはんねん、大きな声で、きれいに歌わはる」
リハビリデイでは歌は歌わないが、このように、ひとアクションごとに、エクササイズの終わりになるとスタッフが「さあ数えましょう!」とかけ声を上げ、全員で10数える。数えたら、マシンを交代。スタッフに手助けされながら次のマシンに進む。
利用者には、自分でさっさと次の器械に移り、自分で負荷の加減を決めてさっさと進めることのできる人もいる。母は、手すりなどしっかり握る箇所がなければ立ち座りもできないので、マシンへの移動もスタッフに抱きかかえられるようにして行う。足にせよ腕にせよ、自分の意のままにはほとんどならないので、マシンに座るのも、からだの部位をセットしてもらうのも、トレーニングのし始めも、スタッフ任せだ。
今月の第1週目は、初日ということで全部のマシンをこなしたそうである。母の場合、マシンをたくさん使ったとか、エクササイズを長時間やったとかそういうこと以前の、数分ごとにあっちからこっちへ移動し、立ったり座ったりする、ということだけで相当な運動量だ。ふだん、家では座ったきり、ほぼ動かないのだから。
それと、非常に気疲れの激しい人なので、初めての場所、知らない人、そうした環境にいるというだけで初舞台に立つ新米役者のように緊張していたであろう。そういう気疲れのために発熱することは、まだ母がバリバリ活動していたときから頻繁にあったことだ。
終了後、送迎の車に乗って、12時半に帰宅。ダイニングの椅子に、抜け殻のようになって座っていた(笑)。へろへろに疲れた、と背中が語っていた(笑)。それでも、昼食はしっかり食べた。やはり運動はいい、させるべきだ、と思った。
リハビリデイでもらった、施設ロゴ入りのミニトートバッグをどの利用者も持参しているそうだ。これからはこのかばんで持っていくねん。そして私の顔を見ながら「みんな、名前つけたはるねん」と言った。はいはい、ネームタグ、つくらしてもらいます、ハイ。
第2週目は、母の体の不具合に合わせて少しずつトレーニングプログラムをつくっていくそうで、いくつかのマシンを重点的に使ったらしい。私は、大腿部と腹筋の強化を希望すると連絡帳に記入しておいた。
今いちばん危ないのは、椅子に静かに座れないことだ。重力に任せて、落ちるように腰掛ける。柔らかい椅子ならいいが、かたい場所でも同じように腰を「下ろす」のではなく文字どおりドタッと「落とす」ので、腰の骨にヒビが入らないかとヒヤヒヤする。亡くなった女優の森光子さんが、高齢になってもスクワットを欠かさなかったそうだが、なるほどと思う。スクワットで鍛えるのは太ももと腹筋、そして足の裏全体で踏ん張る力だ。母にはすべて、無い。逆に言えば、これらが鍛えられて必要十分に筋力があれば、身のこなしも軽やかになるはずなのだ。
ドタッと落としたあとは、その腰を上げることができない。ウチにいる場合、テーブルを両手でがっしりとつかみ、テーブルにへばりつき、しがみつき、テーブルを持ち上げるんじゃないかと思うほどすごい力でもう一度縁をつかみ直し、テーブルに吸い付くようにして、腰を持ち上げる。
座るのは「落下」に近いので一瞬だが、立つのには、何分もかかる。
いや、時間はいくらかかってもかまわない。もう急ぐ理由などないのだから、今さら時間短縮は期待していない。ただ、今の状態だと、立つ・座る動作に費やすエネルギーがものすごく大きいのだ。だから、今、普段の生活でも、朝、ベッドから立つ。トイレの便座に座り、立つ。台所へ来て椅子に座る。立ってコーヒーを淹れる。また座る。……こんなことの繰り返しだけで、母は、昼過ぎにはもう燃料切れ状態になる。夕方になる前に、足がふらつくようになり、何かにつかまっていようと体を支えていようと、膝から崩れて、悪いときには転倒する。
2回目のリハビリデイから帰った母は、どことなく元気がなさそうであった。
疲れたのかどうかを尋ねたら、「そんな疲れてへん」という。体力的に疲れたのではなく、若干意気消沈していたのであった。
「ぜんぜん、できひんかった」
「何ができひんかったん? 難しいこと、やらされたん?」
「むずかしないけどな、わたしは体がしゃんとならへんし、ちゃんとできひんねん」
「そやけど、器械に座って、足乗せたり、腕ひっかけたりしたらええのやろ。そんなんかて向こうの人が手伝うてくれはるんやろ」
「ちゃんと座らしてもろてもな、わたしは背中が伸びひんし、すぐうつむいてしまうしな、ちゃんとした運動にならへん」
「運動になってへんとか、いわれたん?」
「いわれてへん。いわれてへんけど、ぜんぜんできてへんことは、わかるさかい」
しょぼ〜ん。
あらあら。
イキイキはつらつとエクササイズに励む要介護老人たちが多い中で、やはり少し気後れしてしまっているようだ。
しょうがないやんか。全部ちゃんとできるんやったらべつに行かんでもいいやんか。できひんし、できるようになるために行くんやろ。
「そやなあ」
施設スタッフがつくったらしきペーパーカーネーションが、トートバッグの持ち手近く、私がつけておいたネームタグにくるくると巻きつけられていた。きれいやん、これ。
「こないだ母の日やったし、いうて、つけてくれはってん」
ようやく顔がほころんだ。
2014年5月11日日曜日
Fête des mères
2014年5月11日、5月の第2日曜日。日本では、「母の日」である。
日本では、と書いたのはこの母の日というもの、世界各国で祝う日がずいぶんと異なる。……と思っていたんだが、たしかにいろいろあるけれどもけっきょく日本と同じ5月第2日曜日というのが多数派のようである。なーんだ。
フランスでは5月の最終日曜日だ。
フランスに住み始めてすぐスケジュールノートを買うと、5月の最後のほうに「Fête des mères」の記載があった。へーえ、と私はなぜか、その日が日曜日かどうかを確かめもせず(だって渡仏は6月だったから5月のページはほとんど関係なかった)、フランスではその日が毎年不動の母の日なのだと、しばらく思い込んでいた。国によって違うんだよ母の日って〜などと吹聴したかもしれん……はずかしー。何日だったかなあ、その日。5月31日だったような気がする。そうだ、きっとそうだった。「フランスでは5月31日が母の日なんだよ!」って、私は何人に言ってしまっただろうか(笑)。
母のない子も多いだろうに、母、母と数日前から世の中がうるさいうるさい。
母は偉大かもしれないが、人間も雌である以上子を産むのが自然のなりわいであって、もちろん人間だからこそ産まない選択もあり、産まないからどうこう言われる筋合いもないし、つまり、母であるかどうかをそんなにやいのやいの騒ぐのってもう止めたらどうよ、と私は思わなくもないんだがどうだろうか。クリスマスは経済界の陰謀だしセントヴァレンタインはチョコレート屋の陰謀だし花粉症の増大は製薬会社の陰謀だが、母の日は花屋の陰謀じゃないのかと勘ぐりたくなるくらい、ウルサイ、ウルサイよ。およそ生物はみな雌から産み出されるわけだが、そのうち、産んでくれた母親たる雌にくっついて乳を飲むのはほ乳類だけ。おおかたのほ乳類は乳離れしたら自分で生きていくんだが、人間だけがおっぱいだけでは飽き足らず、訓練しなければ自分の意思で排泄もできないし、道具も使えないし、ルールも理解しない。しかしそれらを習得していくのは母だけに依るのか? 母以外の要素がとてつもなく大きいのでないか? 人間は、人間だからこそ喜怒哀楽があり、祝いもすれば弔いもし泣きも笑いもするのだけれども、だからってそれは、すべて母のおかげなのか?
ノンだ。
女は、産んだら懸命に育てる。本能がそうさせるのだ。何も阻害要因がなければふつうその本能が働く。正常に働けば、生活上の物質的な多寡はあれど、子は育つ。なにがしかの阻害要因があると本能は働かないこともある。人間の弱いところ(あるいは強いところか?)といえるだろう。本能が働かない女を母親にもった子には、育児放棄されたり虐待されたりといったことも起こる。しかしそれは、全体から見れば少数の、まれなケースだ。報道が盛んにされるので虐待する親が増えたなどという論説を見かけるが、大多数の女が、産めばちゃんと育てているのだ。多くの場合、特別なミッションを神から与えられたとかそんなタイソウな意識はもたずに、産んだ子が可愛いから育てるのである。
だからって、自分ひとり、あるいは連れ合いと二人でだって、完璧な子育てができるとは限らない。自分の親とか親戚のおばちゃんとか保育士さんとかご近所さんとかさまざまな人の手を借りる。母親自身、完璧に育てられた完全無欠の人間などではあり得ないのだから、その自分から出てきた子がどの程度のもんかなんてわかりきっているではないか。せめて自分が信じるものをこの子にも信じさせたい、自分がいいと思うことをこの子にもいいと感じてほしい、できることがあるとしたらその程度で、はっきりいって母親でなくてもできることだ、そういうのは。
私の母は、夫(私の父)の家業に専従していたので、私を産んですぐ仕事に戻った。というとカッコいいかもしれないが、父の母、つまり姑が孫可愛さに母から私を取り上げたのである。「あんたはややこの世話せんでよろし」と、生まれたばかりの赤子からなかば引き離されて父の仕事に戻されたのだった。昔は、自営業の家では大なり小なり同じようなことが起きていたであろう。舅姑に子育てを助けてもらえず家業と育児をすべて押しつけられていた女のほうが多かったに違いない。それはそれでたいへんな目に遭っただろうが、ウチの母のように、赤子を取り上げられてしまうのも相当辛かったであろう。私はしたがって、母の背中で聞く子守唄とか、そんな思い出が皆無だ。母と密着した記憶がないので、いつも母のことを何となく第三者的な目で見つめてきたような気がする。母のにっくき(笑)姑である私の祖母は、私を溺愛したわけだが、だからって私には、祖母はただひたすら怖かったという記憶しかないのである。女手ひとつで三人の息子を育て上げた祖母は地域の婦人会を仕切る有力者でもあり、とりあえず、私の知る限り誰もが祖母にひれ伏していた(笑)。たぶん、私に生来備わっているエラそーな性格は100%ただしく祖母から受け継いだものである。世界は私を中心に回っており世の中の全員が私のシモベという意識は長年培ったものではなくて、「血」なのだ。
祖母が亡くなったとき、「大好きなおばあちゃんが死んじゃった」というような可愛らしい感情はなく、コワいコワいバアさまがやっといなくなったという思いと、もうひとつ、こちらがより大きいのだが、自分の半身をえぐられたような、からだに空洞ができたような感覚に見舞われて、激しく動揺したのを覚えている。
いつもちょっと距離を置いて母親を見つめてきた私だったが、それではまったく母への愛情がなかったかというとそうではない。「母の日」には小学校で作文を書かされた。お母さんへの手紙を書けというのである。学校には母を知らない子が、あるいは父を知らない子も数人いたが、学校というところはそういう子どもたちへの特別な配慮は、昔はしないところだった(いまは配慮しているとはいえないが、配慮せんでもええところへ余計なおせっかいをしている)。ともかく私は母の日には母を感激させる手紙を、父の日には父が喜ぶ手紙を書いた。それらは単なる年中行事の一つと化していた。なぜカーネーションなのか、とかそうした行事のいわれなどを学んだ記憶はない。ただアメリカ由来のもんらしいといつの間にか心得ていた。外来の行事なんかもうええのに、それぞれ誕生日も祝うのにめんどくさいなあとぼそっと口に出してしまったことがある。「おばあちゃんにもお誕生日と敬老の日があるやろ、アンタらには誕生日、こどもの日、雛祭り、クリスマス、お正月といっぱいあるやんか。父ちゃん母ちゃんにも誕生日のほかにもう一個あってもええやんか」……このセリフは誰が私に投げたのだっただろうか、誰かが私に言ったのだが、誰だったかが思い出せない。誕生日のほかにもう一個。そらまあ、そやな。
自分が母親になってからは、ますます「母の日」が疎ましくなった。娘は律儀にきちんとカードをくれる。感謝の言葉が並んでいる。嬉しくないわけはないが、間違ってもらっては困るとも思う。感謝されるようなことをしてはいないのだ。産む性ゆえの当たり前の所業である。できないことは、しなかった。
私の母もまた、したくてもできなかったし、それを無理にしようとはしなかった。姑に逆らったり家業に従事しないことは家庭の破滅を意味したから。母も、できないことはせずに、身の丈に合った子育てをしてきたのである。
買い物から戻ると、「どこも母の日のカーネーションでいっぱいやろ」と母が言った。「うん。どこもかしこも。スーパーも、今日はカーネーションだらけ。100円ショップも」と答えたが、花屋の陰謀には負けたくないので(笑)買わなかった。というのは嘘で、カーネーション、高いねん。今日まで、めちゃ高いねん。明日やったら値が下がるかな(笑)。いや、ウチにはいつか弟が母に贈ったカーネーションの鉢植えがあるのだ。今年は全然花をつけないけど(笑)。要は、どうでも、いいわけである。
今日もいい天気だ。
日本では、と書いたのはこの母の日というもの、世界各国で祝う日がずいぶんと異なる。……と思っていたんだが、たしかにいろいろあるけれどもけっきょく日本と同じ5月第2日曜日というのが多数派のようである。なーんだ。
フランスでは5月の最終日曜日だ。
フランスに住み始めてすぐスケジュールノートを買うと、5月の最後のほうに「Fête des mères」の記載があった。へーえ、と私はなぜか、その日が日曜日かどうかを確かめもせず(だって渡仏は6月だったから5月のページはほとんど関係なかった)、フランスではその日が毎年不動の母の日なのだと、しばらく思い込んでいた。国によって違うんだよ母の日って〜などと吹聴したかもしれん……はずかしー。何日だったかなあ、その日。5月31日だったような気がする。そうだ、きっとそうだった。「フランスでは5月31日が母の日なんだよ!」って、私は何人に言ってしまっただろうか(笑)。
母のない子も多いだろうに、母、母と数日前から世の中がうるさいうるさい。
母は偉大かもしれないが、人間も雌である以上子を産むのが自然のなりわいであって、もちろん人間だからこそ産まない選択もあり、産まないからどうこう言われる筋合いもないし、つまり、母であるかどうかをそんなにやいのやいの騒ぐのってもう止めたらどうよ、と私は思わなくもないんだがどうだろうか。クリスマスは経済界の陰謀だしセントヴァレンタインはチョコレート屋の陰謀だし花粉症の増大は製薬会社の陰謀だが、母の日は花屋の陰謀じゃないのかと勘ぐりたくなるくらい、ウルサイ、ウルサイよ。およそ生物はみな雌から産み出されるわけだが、そのうち、産んでくれた母親たる雌にくっついて乳を飲むのはほ乳類だけ。おおかたのほ乳類は乳離れしたら自分で生きていくんだが、人間だけがおっぱいだけでは飽き足らず、訓練しなければ自分の意思で排泄もできないし、道具も使えないし、ルールも理解しない。しかしそれらを習得していくのは母だけに依るのか? 母以外の要素がとてつもなく大きいのでないか? 人間は、人間だからこそ喜怒哀楽があり、祝いもすれば弔いもし泣きも笑いもするのだけれども、だからってそれは、すべて母のおかげなのか?
ノンだ。
女は、産んだら懸命に育てる。本能がそうさせるのだ。何も阻害要因がなければふつうその本能が働く。正常に働けば、生活上の物質的な多寡はあれど、子は育つ。なにがしかの阻害要因があると本能は働かないこともある。人間の弱いところ(あるいは強いところか?)といえるだろう。本能が働かない女を母親にもった子には、育児放棄されたり虐待されたりといったことも起こる。しかしそれは、全体から見れば少数の、まれなケースだ。報道が盛んにされるので虐待する親が増えたなどという論説を見かけるが、大多数の女が、産めばちゃんと育てているのだ。多くの場合、特別なミッションを神から与えられたとかそんなタイソウな意識はもたずに、産んだ子が可愛いから育てるのである。
だからって、自分ひとり、あるいは連れ合いと二人でだって、完璧な子育てができるとは限らない。自分の親とか親戚のおばちゃんとか保育士さんとかご近所さんとかさまざまな人の手を借りる。母親自身、完璧に育てられた完全無欠の人間などではあり得ないのだから、その自分から出てきた子がどの程度のもんかなんてわかりきっているではないか。せめて自分が信じるものをこの子にも信じさせたい、自分がいいと思うことをこの子にもいいと感じてほしい、できることがあるとしたらその程度で、はっきりいって母親でなくてもできることだ、そういうのは。
私の母は、夫(私の父)の家業に専従していたので、私を産んですぐ仕事に戻った。というとカッコいいかもしれないが、父の母、つまり姑が孫可愛さに母から私を取り上げたのである。「あんたはややこの世話せんでよろし」と、生まれたばかりの赤子からなかば引き離されて父の仕事に戻されたのだった。昔は、自営業の家では大なり小なり同じようなことが起きていたであろう。舅姑に子育てを助けてもらえず家業と育児をすべて押しつけられていた女のほうが多かったに違いない。それはそれでたいへんな目に遭っただろうが、ウチの母のように、赤子を取り上げられてしまうのも相当辛かったであろう。私はしたがって、母の背中で聞く子守唄とか、そんな思い出が皆無だ。母と密着した記憶がないので、いつも母のことを何となく第三者的な目で見つめてきたような気がする。母のにっくき(笑)姑である私の祖母は、私を溺愛したわけだが、だからって私には、祖母はただひたすら怖かったという記憶しかないのである。女手ひとつで三人の息子を育て上げた祖母は地域の婦人会を仕切る有力者でもあり、とりあえず、私の知る限り誰もが祖母にひれ伏していた(笑)。たぶん、私に生来備わっているエラそーな性格は100%ただしく祖母から受け継いだものである。世界は私を中心に回っており世の中の全員が私のシモベという意識は長年培ったものではなくて、「血」なのだ。
祖母が亡くなったとき、「大好きなおばあちゃんが死んじゃった」というような可愛らしい感情はなく、コワいコワいバアさまがやっといなくなったという思いと、もうひとつ、こちらがより大きいのだが、自分の半身をえぐられたような、からだに空洞ができたような感覚に見舞われて、激しく動揺したのを覚えている。
いつもちょっと距離を置いて母親を見つめてきた私だったが、それではまったく母への愛情がなかったかというとそうではない。「母の日」には小学校で作文を書かされた。お母さんへの手紙を書けというのである。学校には母を知らない子が、あるいは父を知らない子も数人いたが、学校というところはそういう子どもたちへの特別な配慮は、昔はしないところだった(いまは配慮しているとはいえないが、配慮せんでもええところへ余計なおせっかいをしている)。ともかく私は母の日には母を感激させる手紙を、父の日には父が喜ぶ手紙を書いた。それらは単なる年中行事の一つと化していた。なぜカーネーションなのか、とかそうした行事のいわれなどを学んだ記憶はない。ただアメリカ由来のもんらしいといつの間にか心得ていた。外来の行事なんかもうええのに、それぞれ誕生日も祝うのにめんどくさいなあとぼそっと口に出してしまったことがある。「おばあちゃんにもお誕生日と敬老の日があるやろ、アンタらには誕生日、こどもの日、雛祭り、クリスマス、お正月といっぱいあるやんか。父ちゃん母ちゃんにも誕生日のほかにもう一個あってもええやんか」……このセリフは誰が私に投げたのだっただろうか、誰かが私に言ったのだが、誰だったかが思い出せない。誕生日のほかにもう一個。そらまあ、そやな。
自分が母親になってからは、ますます「母の日」が疎ましくなった。娘は律儀にきちんとカードをくれる。感謝の言葉が並んでいる。嬉しくないわけはないが、間違ってもらっては困るとも思う。感謝されるようなことをしてはいないのだ。産む性ゆえの当たり前の所業である。できないことは、しなかった。
私の母もまた、したくてもできなかったし、それを無理にしようとはしなかった。姑に逆らったり家業に従事しないことは家庭の破滅を意味したから。母も、できないことはせずに、身の丈に合った子育てをしてきたのである。
買い物から戻ると、「どこも母の日のカーネーションでいっぱいやろ」と母が言った。「うん。どこもかしこも。スーパーも、今日はカーネーションだらけ。100円ショップも」と答えたが、花屋の陰謀には負けたくないので(笑)買わなかった。というのは嘘で、カーネーション、高いねん。今日まで、めちゃ高いねん。明日やったら値が下がるかな(笑)。いや、ウチにはいつか弟が母に贈ったカーネーションの鉢植えがあるのだ。今年は全然花をつけないけど(笑)。要は、どうでも、いいわけである。
今日もいい天気だ。
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