今月から母は週1回のペースで「リハビリデイサービス」なるものに通い始めた。
8時45分に送迎の車がくる。たいてい、車には先にひとりかふたり、老婦人が乗っている。みなさん80代とおぼしき貫禄で、しかし溌剌としてらっしゃる。
「おはようございます、よろしくお願いします」
新米で若手の母はいつもそう言って車に乗る。ひとりでは乗れないので、よいしょ、と乗せてもらう。というより、体を押しこんでもらうというほうが正しいかな。
リハビリではない普通のデイサービスセンターでも母は「若手」である。周囲は80代後半から100歳。母は昨秋の誕生日でようやく77歳になった。90代の老婦人がたに比べたらひとまわり以上も若いのである。「若いなあ、まだこれからやなあ」と、口々に羨ましがられるそうだ。しかし、そういった80代後半以上の、お年を召してすっかり貫禄十分な老婦人たちよりずっと、母は年老いて見える。
すっかり背中が曲がってしまい、それなりの衣装を着ければ間違いなく魔法使いのおばあさんになれる。後ろからグレーテルに押されて頭からかまどに突っ込んで焼け死んでしまう魔女。だからさー、背筋、がんばってのばそうよ、母ちゃん。
そのリハビリデイには、フロアいっぱいにスポーツジムばりの高性能トレーニングマシンが10機、並んでいる。アームなんとか、レッグなんとか、という名称がついている。機能的にはスポーツジムにあるものと同じだが、器械のデザインが異なる。白基調で、丸みのあるやさしいデザインだ。マシンに取り囲まれるように、休憩のための椅子が幾つも並べられている。一部の壁面には薄型の映像モニターがはり付けられていて、高齢者向け体操の映像がずっと流れている。その前に立ち、あるいは座って、体操をするお年寄りもいる。歩行練習用の平行バーもある。隅には簡易ベッドが置かれていて、マッサージを受ける人、疲れて横になる人、あるいは運動をする人など、多用途に使われているようだった。
各自が思い思いに運動をしているようにも見えるが、このリハビリデイでは全員が声を揃えて数をカウントするので、「みんなで一緒にトレーニング」しているのである。休憩している人も、声を出すように促される。声を出すということはお年寄りにとって大きなリハビリになるらしい。一年前から通所している普通のデイサービスでも、よく歌を歌うそうだ。それは昭和の懐メロのこともあれば、子どもの頃よく歌った遊び歌や、文部省唱歌のこともあると、母が言っていた。「ものすご歌の上手な人が、やはんねん、大きな声で、きれいに歌わはる」
リハビリデイでは歌は歌わないが、このように、ひとアクションごとに、エクササイズの終わりになるとスタッフが「さあ数えましょう!」とかけ声を上げ、全員で10数える。数えたら、マシンを交代。スタッフに手助けされながら次のマシンに進む。
利用者には、自分でさっさと次の器械に移り、自分で負荷の加減を決めてさっさと進めることのできる人もいる。母は、手すりなどしっかり握る箇所がなければ立ち座りもできないので、マシンへの移動もスタッフに抱きかかえられるようにして行う。足にせよ腕にせよ、自分の意のままにはほとんどならないので、マシンに座るのも、からだの部位をセットしてもらうのも、トレーニングのし始めも、スタッフ任せだ。
今月の第1週目は、初日ということで全部のマシンをこなしたそうである。母の場合、マシンをたくさん使ったとか、エクササイズを長時間やったとかそういうこと以前の、数分ごとにあっちからこっちへ移動し、立ったり座ったりする、ということだけで相当な運動量だ。ふだん、家では座ったきり、ほぼ動かないのだから。
それと、非常に気疲れの激しい人なので、初めての場所、知らない人、そうした環境にいるというだけで初舞台に立つ新米役者のように緊張していたであろう。そういう気疲れのために発熱することは、まだ母がバリバリ活動していたときから頻繁にあったことだ。
終了後、送迎の車に乗って、12時半に帰宅。ダイニングの椅子に、抜け殻のようになって座っていた(笑)。へろへろに疲れた、と背中が語っていた(笑)。それでも、昼食はしっかり食べた。やはり運動はいい、させるべきだ、と思った。
リハビリデイでもらった、施設ロゴ入りのミニトートバッグをどの利用者も持参しているそうだ。これからはこのかばんで持っていくねん。そして私の顔を見ながら「みんな、名前つけたはるねん」と言った。はいはい、ネームタグ、つくらしてもらいます、ハイ。
第2週目は、母の体の不具合に合わせて少しずつトレーニングプログラムをつくっていくそうで、いくつかのマシンを重点的に使ったらしい。私は、大腿部と腹筋の強化を希望すると連絡帳に記入しておいた。
今いちばん危ないのは、椅子に静かに座れないことだ。重力に任せて、落ちるように腰掛ける。柔らかい椅子ならいいが、かたい場所でも同じように腰を「下ろす」のではなく文字どおりドタッと「落とす」ので、腰の骨にヒビが入らないかとヒヤヒヤする。亡くなった女優の森光子さんが、高齢になってもスクワットを欠かさなかったそうだが、なるほどと思う。スクワットで鍛えるのは太ももと腹筋、そして足の裏全体で踏ん張る力だ。母にはすべて、無い。逆に言えば、これらが鍛えられて必要十分に筋力があれば、身のこなしも軽やかになるはずなのだ。
ドタッと落としたあとは、その腰を上げることができない。ウチにいる場合、テーブルを両手でがっしりとつかみ、テーブルにへばりつき、しがみつき、テーブルを持ち上げるんじゃないかと思うほどすごい力でもう一度縁をつかみ直し、テーブルに吸い付くようにして、腰を持ち上げる。
座るのは「落下」に近いので一瞬だが、立つのには、何分もかかる。
いや、時間はいくらかかってもかまわない。もう急ぐ理由などないのだから、今さら時間短縮は期待していない。ただ、今の状態だと、立つ・座る動作に費やすエネルギーがものすごく大きいのだ。だから、今、普段の生活でも、朝、ベッドから立つ。トイレの便座に座り、立つ。台所へ来て椅子に座る。立ってコーヒーを淹れる。また座る。……こんなことの繰り返しだけで、母は、昼過ぎにはもう燃料切れ状態になる。夕方になる前に、足がふらつくようになり、何かにつかまっていようと体を支えていようと、膝から崩れて、悪いときには転倒する。
2回目のリハビリデイから帰った母は、どことなく元気がなさそうであった。
疲れたのかどうかを尋ねたら、「そんな疲れてへん」という。体力的に疲れたのではなく、若干意気消沈していたのであった。
「ぜんぜん、できひんかった」
「何ができひんかったん? 難しいこと、やらされたん?」
「むずかしないけどな、わたしは体がしゃんとならへんし、ちゃんとできひんねん」
「そやけど、器械に座って、足乗せたり、腕ひっかけたりしたらええのやろ。そんなんかて向こうの人が手伝うてくれはるんやろ」
「ちゃんと座らしてもろてもな、わたしは背中が伸びひんし、すぐうつむいてしまうしな、ちゃんとした運動にならへん」
「運動になってへんとか、いわれたん?」
「いわれてへん。いわれてへんけど、ぜんぜんできてへんことは、わかるさかい」
しょぼ〜ん。
あらあら。
イキイキはつらつとエクササイズに励む要介護老人たちが多い中で、やはり少し気後れしてしまっているようだ。
しょうがないやんか。全部ちゃんとできるんやったらべつに行かんでもいいやんか。できひんし、できるようになるために行くんやろ。
「そやなあ」
施設スタッフがつくったらしきペーパーカーネーションが、トートバッグの持ち手近く、私がつけておいたネームタグにくるくると巻きつけられていた。きれいやん、これ。
「こないだ母の日やったし、いうて、つけてくれはってん」
ようやく顔がほころんだ。
2014年5月27日火曜日
2014年5月11日日曜日
Fête des mères
2014年5月11日、5月の第2日曜日。日本では、「母の日」である。
日本では、と書いたのはこの母の日というもの、世界各国で祝う日がずいぶんと異なる。……と思っていたんだが、たしかにいろいろあるけれどもけっきょく日本と同じ5月第2日曜日というのが多数派のようである。なーんだ。
フランスでは5月の最終日曜日だ。
フランスに住み始めてすぐスケジュールノートを買うと、5月の最後のほうに「Fête des mères」の記載があった。へーえ、と私はなぜか、その日が日曜日かどうかを確かめもせず(だって渡仏は6月だったから5月のページはほとんど関係なかった)、フランスではその日が毎年不動の母の日なのだと、しばらく思い込んでいた。国によって違うんだよ母の日って〜などと吹聴したかもしれん……はずかしー。何日だったかなあ、その日。5月31日だったような気がする。そうだ、きっとそうだった。「フランスでは5月31日が母の日なんだよ!」って、私は何人に言ってしまっただろうか(笑)。
母のない子も多いだろうに、母、母と数日前から世の中がうるさいうるさい。
母は偉大かもしれないが、人間も雌である以上子を産むのが自然のなりわいであって、もちろん人間だからこそ産まない選択もあり、産まないからどうこう言われる筋合いもないし、つまり、母であるかどうかをそんなにやいのやいの騒ぐのってもう止めたらどうよ、と私は思わなくもないんだがどうだろうか。クリスマスは経済界の陰謀だしセントヴァレンタインはチョコレート屋の陰謀だし花粉症の増大は製薬会社の陰謀だが、母の日は花屋の陰謀じゃないのかと勘ぐりたくなるくらい、ウルサイ、ウルサイよ。およそ生物はみな雌から産み出されるわけだが、そのうち、産んでくれた母親たる雌にくっついて乳を飲むのはほ乳類だけ。おおかたのほ乳類は乳離れしたら自分で生きていくんだが、人間だけがおっぱいだけでは飽き足らず、訓練しなければ自分の意思で排泄もできないし、道具も使えないし、ルールも理解しない。しかしそれらを習得していくのは母だけに依るのか? 母以外の要素がとてつもなく大きいのでないか? 人間は、人間だからこそ喜怒哀楽があり、祝いもすれば弔いもし泣きも笑いもするのだけれども、だからってそれは、すべて母のおかげなのか?
ノンだ。
女は、産んだら懸命に育てる。本能がそうさせるのだ。何も阻害要因がなければふつうその本能が働く。正常に働けば、生活上の物質的な多寡はあれど、子は育つ。なにがしかの阻害要因があると本能は働かないこともある。人間の弱いところ(あるいは強いところか?)といえるだろう。本能が働かない女を母親にもった子には、育児放棄されたり虐待されたりといったことも起こる。しかしそれは、全体から見れば少数の、まれなケースだ。報道が盛んにされるので虐待する親が増えたなどという論説を見かけるが、大多数の女が、産めばちゃんと育てているのだ。多くの場合、特別なミッションを神から与えられたとかそんなタイソウな意識はもたずに、産んだ子が可愛いから育てるのである。
だからって、自分ひとり、あるいは連れ合いと二人でだって、完璧な子育てができるとは限らない。自分の親とか親戚のおばちゃんとか保育士さんとかご近所さんとかさまざまな人の手を借りる。母親自身、完璧に育てられた完全無欠の人間などではあり得ないのだから、その自分から出てきた子がどの程度のもんかなんてわかりきっているではないか。せめて自分が信じるものをこの子にも信じさせたい、自分がいいと思うことをこの子にもいいと感じてほしい、できることがあるとしたらその程度で、はっきりいって母親でなくてもできることだ、そういうのは。
私の母は、夫(私の父)の家業に専従していたので、私を産んですぐ仕事に戻った。というとカッコいいかもしれないが、父の母、つまり姑が孫可愛さに母から私を取り上げたのである。「あんたはややこの世話せんでよろし」と、生まれたばかりの赤子からなかば引き離されて父の仕事に戻されたのだった。昔は、自営業の家では大なり小なり同じようなことが起きていたであろう。舅姑に子育てを助けてもらえず家業と育児をすべて押しつけられていた女のほうが多かったに違いない。それはそれでたいへんな目に遭っただろうが、ウチの母のように、赤子を取り上げられてしまうのも相当辛かったであろう。私はしたがって、母の背中で聞く子守唄とか、そんな思い出が皆無だ。母と密着した記憶がないので、いつも母のことを何となく第三者的な目で見つめてきたような気がする。母のにっくき(笑)姑である私の祖母は、私を溺愛したわけだが、だからって私には、祖母はただひたすら怖かったという記憶しかないのである。女手ひとつで三人の息子を育て上げた祖母は地域の婦人会を仕切る有力者でもあり、とりあえず、私の知る限り誰もが祖母にひれ伏していた(笑)。たぶん、私に生来備わっているエラそーな性格は100%ただしく祖母から受け継いだものである。世界は私を中心に回っており世の中の全員が私のシモベという意識は長年培ったものではなくて、「血」なのだ。
祖母が亡くなったとき、「大好きなおばあちゃんが死んじゃった」というような可愛らしい感情はなく、コワいコワいバアさまがやっといなくなったという思いと、もうひとつ、こちらがより大きいのだが、自分の半身をえぐられたような、からだに空洞ができたような感覚に見舞われて、激しく動揺したのを覚えている。
いつもちょっと距離を置いて母親を見つめてきた私だったが、それではまったく母への愛情がなかったかというとそうではない。「母の日」には小学校で作文を書かされた。お母さんへの手紙を書けというのである。学校には母を知らない子が、あるいは父を知らない子も数人いたが、学校というところはそういう子どもたちへの特別な配慮は、昔はしないところだった(いまは配慮しているとはいえないが、配慮せんでもええところへ余計なおせっかいをしている)。ともかく私は母の日には母を感激させる手紙を、父の日には父が喜ぶ手紙を書いた。それらは単なる年中行事の一つと化していた。なぜカーネーションなのか、とかそうした行事のいわれなどを学んだ記憶はない。ただアメリカ由来のもんらしいといつの間にか心得ていた。外来の行事なんかもうええのに、それぞれ誕生日も祝うのにめんどくさいなあとぼそっと口に出してしまったことがある。「おばあちゃんにもお誕生日と敬老の日があるやろ、アンタらには誕生日、こどもの日、雛祭り、クリスマス、お正月といっぱいあるやんか。父ちゃん母ちゃんにも誕生日のほかにもう一個あってもええやんか」……このセリフは誰が私に投げたのだっただろうか、誰かが私に言ったのだが、誰だったかが思い出せない。誕生日のほかにもう一個。そらまあ、そやな。
自分が母親になってからは、ますます「母の日」が疎ましくなった。娘は律儀にきちんとカードをくれる。感謝の言葉が並んでいる。嬉しくないわけはないが、間違ってもらっては困るとも思う。感謝されるようなことをしてはいないのだ。産む性ゆえの当たり前の所業である。できないことは、しなかった。
私の母もまた、したくてもできなかったし、それを無理にしようとはしなかった。姑に逆らったり家業に従事しないことは家庭の破滅を意味したから。母も、できないことはせずに、身の丈に合った子育てをしてきたのである。
買い物から戻ると、「どこも母の日のカーネーションでいっぱいやろ」と母が言った。「うん。どこもかしこも。スーパーも、今日はカーネーションだらけ。100円ショップも」と答えたが、花屋の陰謀には負けたくないので(笑)買わなかった。というのは嘘で、カーネーション、高いねん。今日まで、めちゃ高いねん。明日やったら値が下がるかな(笑)。いや、ウチにはいつか弟が母に贈ったカーネーションの鉢植えがあるのだ。今年は全然花をつけないけど(笑)。要は、どうでも、いいわけである。
今日もいい天気だ。
日本では、と書いたのはこの母の日というもの、世界各国で祝う日がずいぶんと異なる。……と思っていたんだが、たしかにいろいろあるけれどもけっきょく日本と同じ5月第2日曜日というのが多数派のようである。なーんだ。
フランスでは5月の最終日曜日だ。
フランスに住み始めてすぐスケジュールノートを買うと、5月の最後のほうに「Fête des mères」の記載があった。へーえ、と私はなぜか、その日が日曜日かどうかを確かめもせず(だって渡仏は6月だったから5月のページはほとんど関係なかった)、フランスではその日が毎年不動の母の日なのだと、しばらく思い込んでいた。国によって違うんだよ母の日って〜などと吹聴したかもしれん……はずかしー。何日だったかなあ、その日。5月31日だったような気がする。そうだ、きっとそうだった。「フランスでは5月31日が母の日なんだよ!」って、私は何人に言ってしまっただろうか(笑)。
母のない子も多いだろうに、母、母と数日前から世の中がうるさいうるさい。
母は偉大かもしれないが、人間も雌である以上子を産むのが自然のなりわいであって、もちろん人間だからこそ産まない選択もあり、産まないからどうこう言われる筋合いもないし、つまり、母であるかどうかをそんなにやいのやいの騒ぐのってもう止めたらどうよ、と私は思わなくもないんだがどうだろうか。クリスマスは経済界の陰謀だしセントヴァレンタインはチョコレート屋の陰謀だし花粉症の増大は製薬会社の陰謀だが、母の日は花屋の陰謀じゃないのかと勘ぐりたくなるくらい、ウルサイ、ウルサイよ。およそ生物はみな雌から産み出されるわけだが、そのうち、産んでくれた母親たる雌にくっついて乳を飲むのはほ乳類だけ。おおかたのほ乳類は乳離れしたら自分で生きていくんだが、人間だけがおっぱいだけでは飽き足らず、訓練しなければ自分の意思で排泄もできないし、道具も使えないし、ルールも理解しない。しかしそれらを習得していくのは母だけに依るのか? 母以外の要素がとてつもなく大きいのでないか? 人間は、人間だからこそ喜怒哀楽があり、祝いもすれば弔いもし泣きも笑いもするのだけれども、だからってそれは、すべて母のおかげなのか?
ノンだ。
女は、産んだら懸命に育てる。本能がそうさせるのだ。何も阻害要因がなければふつうその本能が働く。正常に働けば、生活上の物質的な多寡はあれど、子は育つ。なにがしかの阻害要因があると本能は働かないこともある。人間の弱いところ(あるいは強いところか?)といえるだろう。本能が働かない女を母親にもった子には、育児放棄されたり虐待されたりといったことも起こる。しかしそれは、全体から見れば少数の、まれなケースだ。報道が盛んにされるので虐待する親が増えたなどという論説を見かけるが、大多数の女が、産めばちゃんと育てているのだ。多くの場合、特別なミッションを神から与えられたとかそんなタイソウな意識はもたずに、産んだ子が可愛いから育てるのである。
だからって、自分ひとり、あるいは連れ合いと二人でだって、完璧な子育てができるとは限らない。自分の親とか親戚のおばちゃんとか保育士さんとかご近所さんとかさまざまな人の手を借りる。母親自身、完璧に育てられた完全無欠の人間などではあり得ないのだから、その自分から出てきた子がどの程度のもんかなんてわかりきっているではないか。せめて自分が信じるものをこの子にも信じさせたい、自分がいいと思うことをこの子にもいいと感じてほしい、できることがあるとしたらその程度で、はっきりいって母親でなくてもできることだ、そういうのは。
私の母は、夫(私の父)の家業に専従していたので、私を産んですぐ仕事に戻った。というとカッコいいかもしれないが、父の母、つまり姑が孫可愛さに母から私を取り上げたのである。「あんたはややこの世話せんでよろし」と、生まれたばかりの赤子からなかば引き離されて父の仕事に戻されたのだった。昔は、自営業の家では大なり小なり同じようなことが起きていたであろう。舅姑に子育てを助けてもらえず家業と育児をすべて押しつけられていた女のほうが多かったに違いない。それはそれでたいへんな目に遭っただろうが、ウチの母のように、赤子を取り上げられてしまうのも相当辛かったであろう。私はしたがって、母の背中で聞く子守唄とか、そんな思い出が皆無だ。母と密着した記憶がないので、いつも母のことを何となく第三者的な目で見つめてきたような気がする。母のにっくき(笑)姑である私の祖母は、私を溺愛したわけだが、だからって私には、祖母はただひたすら怖かったという記憶しかないのである。女手ひとつで三人の息子を育て上げた祖母は地域の婦人会を仕切る有力者でもあり、とりあえず、私の知る限り誰もが祖母にひれ伏していた(笑)。たぶん、私に生来備わっているエラそーな性格は100%ただしく祖母から受け継いだものである。世界は私を中心に回っており世の中の全員が私のシモベという意識は長年培ったものではなくて、「血」なのだ。
祖母が亡くなったとき、「大好きなおばあちゃんが死んじゃった」というような可愛らしい感情はなく、コワいコワいバアさまがやっといなくなったという思いと、もうひとつ、こちらがより大きいのだが、自分の半身をえぐられたような、からだに空洞ができたような感覚に見舞われて、激しく動揺したのを覚えている。
いつもちょっと距離を置いて母親を見つめてきた私だったが、それではまったく母への愛情がなかったかというとそうではない。「母の日」には小学校で作文を書かされた。お母さんへの手紙を書けというのである。学校には母を知らない子が、あるいは父を知らない子も数人いたが、学校というところはそういう子どもたちへの特別な配慮は、昔はしないところだった(いまは配慮しているとはいえないが、配慮せんでもええところへ余計なおせっかいをしている)。ともかく私は母の日には母を感激させる手紙を、父の日には父が喜ぶ手紙を書いた。それらは単なる年中行事の一つと化していた。なぜカーネーションなのか、とかそうした行事のいわれなどを学んだ記憶はない。ただアメリカ由来のもんらしいといつの間にか心得ていた。外来の行事なんかもうええのに、それぞれ誕生日も祝うのにめんどくさいなあとぼそっと口に出してしまったことがある。「おばあちゃんにもお誕生日と敬老の日があるやろ、アンタらには誕生日、こどもの日、雛祭り、クリスマス、お正月といっぱいあるやんか。父ちゃん母ちゃんにも誕生日のほかにもう一個あってもええやんか」……このセリフは誰が私に投げたのだっただろうか、誰かが私に言ったのだが、誰だったかが思い出せない。誕生日のほかにもう一個。そらまあ、そやな。
自分が母親になってからは、ますます「母の日」が疎ましくなった。娘は律儀にきちんとカードをくれる。感謝の言葉が並んでいる。嬉しくないわけはないが、間違ってもらっては困るとも思う。感謝されるようなことをしてはいないのだ。産む性ゆえの当たり前の所業である。できないことは、しなかった。
私の母もまた、したくてもできなかったし、それを無理にしようとはしなかった。姑に逆らったり家業に従事しないことは家庭の破滅を意味したから。母も、できないことはせずに、身の丈に合った子育てをしてきたのである。
買い物から戻ると、「どこも母の日のカーネーションでいっぱいやろ」と母が言った。「うん。どこもかしこも。スーパーも、今日はカーネーションだらけ。100円ショップも」と答えたが、花屋の陰謀には負けたくないので(笑)買わなかった。というのは嘘で、カーネーション、高いねん。今日まで、めちゃ高いねん。明日やったら値が下がるかな(笑)。いや、ウチにはいつか弟が母に贈ったカーネーションの鉢植えがあるのだ。今年は全然花をつけないけど(笑)。要は、どうでも、いいわけである。
今日もいい天気だ。
2014年5月7日水曜日
"Si t'en avais fait avant, tu pourrais en faire cadeau."
冷凍庫には実山椒がたくさんある。
一握り、いや二握りくらいか、少量ずつ小分けしてビニール袋に入れたものが数包み。
そのうちのひと袋を炊いて、ちりめん山椒をこしらえた。
実山椒は、母がまだ台所に立っていた頃、買っては冷凍保存していたものだ。日付を書いておいてくれれば古いものから使えるのに、と私が文句を言うと、どれも一緒や、などと言う。母は旬のものが出回ると必ず(けっこう大量に)買い求め、あるものはそのまま、あるものは下ごしらえして、よく冷凍した(彼女の欠点は日付を書かないことと、冷凍したことを忘れることである)。実山椒は、商店街の露店の八百屋でいつも買っていたようだ。毎年筍を買う八百屋とは別の、行商に来ている八百屋だ。
母はよく佃煮をつくった。昔から、母は派手な料理は苦手だった。雑誌や料理本に載っている、または料理番組で放映された、そんな料理を見よう見まねでつくってくれたが、いつもさほど美味しくなかった。出来合いのカレールーで仕上げるカレーでさえも、たいして美味しくはなかった。ただ母はたいへん忙しいにもかかわらず、味はどうあれ食事の支度を投げ出すようなことはけっしてしなかった。私も弟も、よほどの場合を除いて文句を言わず黙々といただいた(ごくたまに、「よほどの場合」もあったのだが)。
そんな母だけれども、干し椎茸や、だしをとったあとの昆布をじゃこと炊いてつくる佃煮はとびきり美味しかった。葉つき大根があれば葉は捨てずに大根葉の佃煮にした。そうした佃煮に、実山椒が入ることも頻繁だった。
私たちは、母の佃煮とご飯があれば、主菜も副菜も不要であった。佃煮とご飯で延々と食べ続けることができた。そういえば漬け物も、祖母のぬか床を引き継いで母が漬けていた。佃煮と漬け物があれば、地味だけど十分な食卓だった。思えばオール自家製で、たいへんスペシャルであったといえるではないか。
その後子どもたち(=私たち)が成長し、食べ物の嗜好も少しずつ変わり、台所家電も進化して、母の手料理のレパートリーにも少しずつ洋食系が加わっていったが、母は相変わらず、だしをとったあとの昆布をリサイクルして佃煮をつくった。瓶に詰めてお隣におすそ分けすると、お隣からは別のお手製の佃煮が返ってくる。それもまた、格別に美味しい。
けっきょくは私も、同じことをいま、している。だしをとったあとの昆布と、根菜の葉や皮を刻んで炊き合わせ、佃煮にしたり、ちょっと趣向を変えてオリーヴオイルと白ワインで煮詰めたり。母と私の食卓にはそんな小さなおかずが点々と、焼き魚を取り囲んで並ぶ。
「これ、美味しいなあ、あんたのちりめん山椒」
「冷凍庫にほったらかしになってた山椒でも、ぴりりとええ味するもんやな」
過日の札幌出張の折りに会った知人には、老舗Q堂のちりめん山椒をひと包み、手土産に持っていったが、
「行く前につくってこれ持ってってあげたらよかったのに。Q堂なんかより、ずっと美味しいえ」
……。そら、どもおおきに。
有り難き言葉なれど、冷凍庫の中でいつから眠ってたかわからん実山椒ではちょっと……ねえ。
とはいえ、我ながら、ほんまに、美味しい。
一握り、いや二握りくらいか、少量ずつ小分けしてビニール袋に入れたものが数包み。
そのうちのひと袋を炊いて、ちりめん山椒をこしらえた。
実山椒は、母がまだ台所に立っていた頃、買っては冷凍保存していたものだ。日付を書いておいてくれれば古いものから使えるのに、と私が文句を言うと、どれも一緒や、などと言う。母は旬のものが出回ると必ず(けっこう大量に)買い求め、あるものはそのまま、あるものは下ごしらえして、よく冷凍した(彼女の欠点は日付を書かないことと、冷凍したことを忘れることである)。実山椒は、商店街の露店の八百屋でいつも買っていたようだ。毎年筍を買う八百屋とは別の、行商に来ている八百屋だ。
母はよく佃煮をつくった。昔から、母は派手な料理は苦手だった。雑誌や料理本に載っている、または料理番組で放映された、そんな料理を見よう見まねでつくってくれたが、いつもさほど美味しくなかった。出来合いのカレールーで仕上げるカレーでさえも、たいして美味しくはなかった。ただ母はたいへん忙しいにもかかわらず、味はどうあれ食事の支度を投げ出すようなことはけっしてしなかった。私も弟も、よほどの場合を除いて文句を言わず黙々といただいた(ごくたまに、「よほどの場合」もあったのだが)。
そんな母だけれども、干し椎茸や、だしをとったあとの昆布をじゃこと炊いてつくる佃煮はとびきり美味しかった。葉つき大根があれば葉は捨てずに大根葉の佃煮にした。そうした佃煮に、実山椒が入ることも頻繁だった。
私たちは、母の佃煮とご飯があれば、主菜も副菜も不要であった。佃煮とご飯で延々と食べ続けることができた。そういえば漬け物も、祖母のぬか床を引き継いで母が漬けていた。佃煮と漬け物があれば、地味だけど十分な食卓だった。思えばオール自家製で、たいへんスペシャルであったといえるではないか。
その後子どもたち(=私たち)が成長し、食べ物の嗜好も少しずつ変わり、台所家電も進化して、母の手料理のレパートリーにも少しずつ洋食系が加わっていったが、母は相変わらず、だしをとったあとの昆布をリサイクルして佃煮をつくった。瓶に詰めてお隣におすそ分けすると、お隣からは別のお手製の佃煮が返ってくる。それもまた、格別に美味しい。
けっきょくは私も、同じことをいま、している。だしをとったあとの昆布と、根菜の葉や皮を刻んで炊き合わせ、佃煮にしたり、ちょっと趣向を変えてオリーヴオイルと白ワインで煮詰めたり。母と私の食卓にはそんな小さなおかずが点々と、焼き魚を取り囲んで並ぶ。
「これ、美味しいなあ、あんたのちりめん山椒」
「冷凍庫にほったらかしになってた山椒でも、ぴりりとええ味するもんやな」
過日の札幌出張の折りに会った知人には、老舗Q堂のちりめん山椒をひと包み、手土産に持っていったが、
「行く前につくってこれ持ってってあげたらよかったのに。Q堂なんかより、ずっと美味しいえ」
……。そら、どもおおきに。
有り難き言葉なれど、冷凍庫の中でいつから眠ってたかわからん実山椒ではちょっと……ねえ。
とはいえ、我ながら、ほんまに、美味しい。
2014年4月19日土曜日
"J'ai souvent cuisiné du bamboo, moi."
朝掘り筍を買い求め、お吸い物にしたり蒸し焼きにしたりして、美味しくいただいている。
商店街の馴染みの八百屋で、これは少し固め、これは柔らかめ、食べる人のお好みなんやけどね、と指し示される。母の咀嚼力を考えて柔らかめがいいかなというと、「うーん、でもね、筍って歯応えで楽しむもんでもあるやん」。母を、そして母の好みもよく知る八百屋夫婦は「固めといっても朝掘りやし、よそで売ってるのより柔らかいから大丈夫」と、しっかり締まった筍をすすめてくれた。
値が張るが、さすがに新鮮なゆえの美味しさは格別だ。いろいろに調理して、旬を味わう喜びにひたっている。
このように素材がよいと、若干料理が下手でも問題にならないから助かる。たいした手を加えなくても済むのは、段取り下手で技術もない私のような人間には大きな味方。味覚の鈍くなった母には何を食べさせても、美味しいと言うのだが、たとえば先日友達のレストランに行った時のように、心底美味しいと思った時は口をついて出る言葉が違うのだ。レストランと張り合うつもりはないのだけれども(笑)、ウチでも、この筍のように、旬の新鮮な素材でシンプルに仕上げると、美味しい〜としみじみ言ってくれる。おそらく、今がその季節なのだ、と歳時記を確かめることで、かつての食事、かつての調理の記憶が甦り、今摂っている食事に重なって味わいが幾重にも増幅するのだろう。
母はほぼ毎日商店街へ出向き、八百屋、魚屋、肉屋とさんざんおしゃべりして食材を買ってきた。その時季のいちばん美味しいものを、馴染み客だからと少しおまけしてもらって買ったことを少し自慢げに話しながら、料理した。お世辞にも料理上手だったとはいえない母だが、自分の母親、兄嫁、そして姑から教わった、いわゆる昔からあるものは考えることなくいつもつくった。今この時期の筍もそうで、八百屋が自前で持っている竹薮から朝掘ってくる筍は当然高いが、午前中に必ず買いに行く母にはいつもサービスしてくれて、だから母はシーズン中何度も筍を買い、私たち家族は来る日も来る日も(笑)若竹煮と筍の澄ましと筍ご飯と木の芽和えをいただいた。
大鍋にたっぷり水を入れ、八百屋がつけてくれた米ぬか袋を入れて、筍を茹でる。
煮立ったら弱火にする。早くも筍の薫りが家中に満ちる。
「ええ匂いしてきたわあ」
「よう筍、炊いたなあ私も」
「お父さんが好きやったわあ、筍」
食べ物の話をすると、必ず「お父さんが好きやったわあ」というフレーズが出る。父はなんでも好きだったな、そういえば。
今の私は高価な筍をそう何度も買えないけれども、あと一度、買おうかな。という気になっている。去年もおととしも、一度ずつしか買えなかったが、それはどちらかというと時間の問題だった。時間のある今は予算が不足しているが、なに、ほかの何かを切り詰めよう(笑)。
商店街の馴染みの八百屋で、これは少し固め、これは柔らかめ、食べる人のお好みなんやけどね、と指し示される。母の咀嚼力を考えて柔らかめがいいかなというと、「うーん、でもね、筍って歯応えで楽しむもんでもあるやん」。母を、そして母の好みもよく知る八百屋夫婦は「固めといっても朝掘りやし、よそで売ってるのより柔らかいから大丈夫」と、しっかり締まった筍をすすめてくれた。
値が張るが、さすがに新鮮なゆえの美味しさは格別だ。いろいろに調理して、旬を味わう喜びにひたっている。
このように素材がよいと、若干料理が下手でも問題にならないから助かる。たいした手を加えなくても済むのは、段取り下手で技術もない私のような人間には大きな味方。味覚の鈍くなった母には何を食べさせても、美味しいと言うのだが、たとえば先日友達のレストランに行った時のように、心底美味しいと思った時は口をついて出る言葉が違うのだ。レストランと張り合うつもりはないのだけれども(笑)、ウチでも、この筍のように、旬の新鮮な素材でシンプルに仕上げると、美味しい〜としみじみ言ってくれる。おそらく、今がその季節なのだ、と歳時記を確かめることで、かつての食事、かつての調理の記憶が甦り、今摂っている食事に重なって味わいが幾重にも増幅するのだろう。
母はほぼ毎日商店街へ出向き、八百屋、魚屋、肉屋とさんざんおしゃべりして食材を買ってきた。その時季のいちばん美味しいものを、馴染み客だからと少しおまけしてもらって買ったことを少し自慢げに話しながら、料理した。お世辞にも料理上手だったとはいえない母だが、自分の母親、兄嫁、そして姑から教わった、いわゆる昔からあるものは考えることなくいつもつくった。今この時期の筍もそうで、八百屋が自前で持っている竹薮から朝掘ってくる筍は当然高いが、午前中に必ず買いに行く母にはいつもサービスしてくれて、だから母はシーズン中何度も筍を買い、私たち家族は来る日も来る日も(笑)若竹煮と筍の澄ましと筍ご飯と木の芽和えをいただいた。
大鍋にたっぷり水を入れ、八百屋がつけてくれた米ぬか袋を入れて、筍を茹でる。
煮立ったら弱火にする。早くも筍の薫りが家中に満ちる。
「ええ匂いしてきたわあ」
「よう筍、炊いたなあ私も」
「お父さんが好きやったわあ、筍」
食べ物の話をすると、必ず「お父さんが好きやったわあ」というフレーズが出る。父はなんでも好きだったな、そういえば。
今の私は高価な筍をそう何度も買えないけれども、あと一度、買おうかな。という気になっている。去年もおととしも、一度ずつしか買えなかったが、それはどちらかというと時間の問題だった。時間のある今は予算が不足しているが、なに、ほかの何かを切り詰めよう(笑)。
2014年4月16日水曜日
"C'est très bon."
母と、友達の店で食事をした。
食べることが大好きな母は、「家族で外食」をことのほか喜ぶ人だ。父の染色業に専従していた母は朝から晩まで父の指示で仕事を手伝い、その合間に家事をした。近所の商店街へ食材を買いに出かけるのがほとんど唯一の外出だった。町内のレクレーションでご近所の奥さんたちと出かけたり、父の兄弟あるいは自分の兄弟姉妹との食事会などが企画されると出かけることができたが、父の兄弟たちはたいていはウチへ来た。盆と正月はあらかじめ来るとわかっているので準備できるが、それ以外にも、突然来訪することひんぱんだった。叔父がふらりとひとりで来るというパターンもなくはなかったが、たいていは家族で出かけていてその帰りに「ちょっと寄ったんやー」といっていきなり押しかける。「もう食事は済んでるから要らんよ」とは口ばかりで、酒やつまみを出さないわけにはいかないから出すとあっという間に平らげる。私や弟は従兄弟が来るのは嬉しくてよく遊んだが、たったひとりでいきなり来た客をもてなす母の心中いかばかりであったろうか。
夫婦で出かけることも、ほとんどなかった。仕事を終えたあと外へ飲みに出かけるのは亭主ばかりで、母はいつも夜中まで待っていた。父は、家族を連れて出かけようという発想はあまりしない人だった。
私たち子どもが大人になって稼ぐようになり、父と母をともなって出かけるといったことをできるようになって、ようやく母は「家族で外食」を楽しめるようになったのだった。とはいえ、私たち子どもはあっという間に多忙になり、貴重な余暇を何が嬉しくて偏屈な親父と主体性のないお袋を連れての外出に費やさなくちゃならんのだと考えるようになる。
私も弟も人の親となって、今度こそようやく、親子孫の三世代での「家族で外食」が、我が家の定例となりつつあった。それは安い回転寿司だったり、ファミレスだったりしたが、父も母も私たちと一緒にいるだけで幸せそうであった。
私たちの子、つまり母にとっての孫がもう18歳だ。「家族で」なんて、中高生になると頼まれても嫌だと思うようになる。それでも私の娘の場合、片親のせいもあるのだろうが、祖父・祖母・母・自分という4人で、祖父亡きあとは残りの3人で、出かけることにこだわった。年老いて出かけることを億劫がる祖父母の尻を叩いて無理やり連れ出したこともある。私と二人で出かけるのでは物足りないと感じる娘のためだった。しかし、母は座敷には座れなくなり、椅子席でも高さによっては立ち座りができないので、店という場所で食事をするのを遠ざけるようになった。美味しいと評判の新しい店、近いし歩いて(母は車に乗るのも容易ではない)行こうよ、といっても出たがらない。二人で行っといで、という。
今ではふつうに歩くのも困難なので、「歩いて行ける近所の店」も不可能だ。
友達の店はタクシーに乗ると1500円くらいの場所にある。あまり流行っていないので(失礼)、ほかの客の目を気にすることもない。糖尿病だけど、一年に一度くらいちゃんとしたレストランでご飯食べたっていいじゃないか、ということで連れ出すことにした。
友達の店は、欧風料理を謳う店だ。カジュアルフレンチ、かな。
「えらいなあ、こんな立派なお店もって」
「いえいえ、ぜんぜん立派とちごて」
「お店やって、お父さんとお母さんの面倒見たはんの、えらいなあ」
「いえ、面倒見てもらってんの、私のほうなんです。儲かってへんし人を雇えへんし」
「それでええにゃ、体動かさなあかんえ。動かし続けてたらな、ちょっと悪なっても治るねん。動いてへんかったらな、悪なっててもわからへんし、気がついた時はもう遅いねん」
「そうですねえ、ウチの両親にももっと店で働いてもらいますわ」(笑)
友達の両親は母より年上だが、背筋はしゃんと伸びて足取りもたしかだ。お父さんは仕入れを手伝い、お母さんはホールを手伝っている。記憶がやや覚束ないことがあるようだが、お母さんが注文を間違ったことはまだないという。
「よう叱られますねん」
「しょうがおへんなあ、叱られてるうちが花かもしれまへん」
友達の店は町外れにあり、長年の贔屓客だけでなんとか保っているといってもいい。何度も経営の危機に陥りその度に畳むことは考えたというが、友達と両親の人柄か、客がやめさせないのだそうだ。
「おいしいわあ。ものすご、おいしいわあ」
母は何度もそう言って、少しずつ、むせないように注意深く、箸を口に運んでいた。
食べることが大好きな母は、「家族で外食」をことのほか喜ぶ人だ。父の染色業に専従していた母は朝から晩まで父の指示で仕事を手伝い、その合間に家事をした。近所の商店街へ食材を買いに出かけるのがほとんど唯一の外出だった。町内のレクレーションでご近所の奥さんたちと出かけたり、父の兄弟あるいは自分の兄弟姉妹との食事会などが企画されると出かけることができたが、父の兄弟たちはたいていはウチへ来た。盆と正月はあらかじめ来るとわかっているので準備できるが、それ以外にも、突然来訪することひんぱんだった。叔父がふらりとひとりで来るというパターンもなくはなかったが、たいていは家族で出かけていてその帰りに「ちょっと寄ったんやー」といっていきなり押しかける。「もう食事は済んでるから要らんよ」とは口ばかりで、酒やつまみを出さないわけにはいかないから出すとあっという間に平らげる。私や弟は従兄弟が来るのは嬉しくてよく遊んだが、たったひとりでいきなり来た客をもてなす母の心中いかばかりであったろうか。
夫婦で出かけることも、ほとんどなかった。仕事を終えたあと外へ飲みに出かけるのは亭主ばかりで、母はいつも夜中まで待っていた。父は、家族を連れて出かけようという発想はあまりしない人だった。
私たち子どもが大人になって稼ぐようになり、父と母をともなって出かけるといったことをできるようになって、ようやく母は「家族で外食」を楽しめるようになったのだった。とはいえ、私たち子どもはあっという間に多忙になり、貴重な余暇を何が嬉しくて偏屈な親父と主体性のないお袋を連れての外出に費やさなくちゃならんのだと考えるようになる。
私も弟も人の親となって、今度こそようやく、親子孫の三世代での「家族で外食」が、我が家の定例となりつつあった。それは安い回転寿司だったり、ファミレスだったりしたが、父も母も私たちと一緒にいるだけで幸せそうであった。
私たちの子、つまり母にとっての孫がもう18歳だ。「家族で」なんて、中高生になると頼まれても嫌だと思うようになる。それでも私の娘の場合、片親のせいもあるのだろうが、祖父・祖母・母・自分という4人で、祖父亡きあとは残りの3人で、出かけることにこだわった。年老いて出かけることを億劫がる祖父母の尻を叩いて無理やり連れ出したこともある。私と二人で出かけるのでは物足りないと感じる娘のためだった。しかし、母は座敷には座れなくなり、椅子席でも高さによっては立ち座りができないので、店という場所で食事をするのを遠ざけるようになった。美味しいと評判の新しい店、近いし歩いて(母は車に乗るのも容易ではない)行こうよ、といっても出たがらない。二人で行っといで、という。
今ではふつうに歩くのも困難なので、「歩いて行ける近所の店」も不可能だ。
友達の店はタクシーに乗ると1500円くらいの場所にある。あまり流行っていないので(失礼)、ほかの客の目を気にすることもない。糖尿病だけど、一年に一度くらいちゃんとしたレストランでご飯食べたっていいじゃないか、ということで連れ出すことにした。
友達の店は、欧風料理を謳う店だ。カジュアルフレンチ、かな。
「えらいなあ、こんな立派なお店もって」
「いえいえ、ぜんぜん立派とちごて」
「お店やって、お父さんとお母さんの面倒見たはんの、えらいなあ」
「いえ、面倒見てもらってんの、私のほうなんです。儲かってへんし人を雇えへんし」
「それでええにゃ、体動かさなあかんえ。動かし続けてたらな、ちょっと悪なっても治るねん。動いてへんかったらな、悪なっててもわからへんし、気がついた時はもう遅いねん」
「そうですねえ、ウチの両親にももっと店で働いてもらいますわ」(笑)
友達の両親は母より年上だが、背筋はしゃんと伸びて足取りもたしかだ。お父さんは仕入れを手伝い、お母さんはホールを手伝っている。記憶がやや覚束ないことがあるようだが、お母さんが注文を間違ったことはまだないという。
「よう叱られますねん」
「しょうがおへんなあ、叱られてるうちが花かもしれまへん」
友達の店は町外れにあり、長年の贔屓客だけでなんとか保っているといってもいい。何度も経営の危機に陥りその度に畳むことは考えたというが、友達と両親の人柄か、客がやめさせないのだそうだ。
「おいしいわあ。ものすご、おいしいわあ」
母は何度もそう言って、少しずつ、むせないように注意深く、箸を口に運んでいた。
2014年4月13日日曜日
"Il faut faire de l'exercice, oui."
今月の初め、数か所のリハビリデイサービス施設を見学した。
なかなか興味深い体験だった。
介護保険施設にもかかわらず、来ている高齢者の元気なこと(笑)。アンタたちほんまに要介護老人なのか? いや、たいした運動をしているわけではない。ただ、みなさん、表情が明るく、生き生きしておられるので、ことさらお元気に見えるわけだ。
母がとても、みすぼらしく見える。
高性能なマシンが並び、おじいさんおばあさんたちが思い思いにゆるゆるとトレーニングするさまは、スポーツジムとは明らかに異なるけれども、現在母が通うデイサービスセンターの雰囲気にはない「活気」がたしかにある。
マシンを利用する高齢者は、要介護老人のはずなのに、なんとなくスポーツマンの凛々しさを表情に湛える。
「お試し体験」でマシンに座らせてもらう母。言われるままに手足を動かす母。
これほどエクササイズマシンの似合わない図があるだろうかと思うほど、母の様子は、この空間に場違いであった。
母は、ちょうど一年前に胃潰瘍のためひと月入院した。
胃潰瘍だから、入院したのではなかった。いきなり食欲が減退し、食べようとしても食べられない。そんな状態が続いた。
それよりさかのぼること1週間くらい、転倒して鎖骨を骨折していたのだが、そのこととの関連はなさそうであった。咀嚼ができなくなったのかと思い、おかずをすべてポタージュ状にしたり、 飲み物にとろみ剤を入れて飲み込みやすくしたり、手を尽くしたが、ひと口、ふた口くらいでもう受けつけない。母は「なんでかわからへんけど、食べられへん」というばかりで、痛みや苦しさをまったく訴えない。
当時、私は朝食は一緒に摂ったが、昼・夜の食事は準備してつくっておき、温めればいいだけにして出勤していた。
午後の途中で、娘が学校からいったん帰宅し、洗濯物を取り込み、母が食べたかどうかを見てくれる。
「おばあちゃん、何も食べたはらへん」とメールが来る。
非常に心配される状態だったが、母につきっきりでいるわけにいかなかった。
仕事はいつものサイクルで繁忙のピーク。さらに、娘がバレエ発表会の本番直前であった。衣装のサイズ調整やシューズの滑り止め、舞台小道具の制作など、連日針仕事にも追われていた。さらには楽屋番として差し入れの買い出しまで。
なにより、母は孫の舞台をことのほか楽しみにしていた。今主治医に見せると「即入院」と言われそうな予感がして、発表会が終わるまで頑張ってくれの内心祈りながら、母の口元にポタージュを運んだ。
舞台が終わり、翌日すぐに糖尿病をみてくれている主治医を受診したら、消化器系の医院に紹介され、エコーで胃腸を診察。だが異常は見つからない。
翌日も、翌々日も食欲は戻らず、目に見えてやせ細ってきた。仕事で動けないので、弟嫁に頼んで主治医に診せた。栄養失調。すぐに点滴された。体重も激減。ただし、血糖値はすこぶるよかった。食べてないから当然だが、皮肉なもの。
すぐにベッドの空きを検索してもらい、家から近くの総合病院で受け入れてもらうことになった。とにかく原因不明の食欲減退による栄養失調ということで、連日、一日中点滴をした。
並行して、いくつもの精密検査が行われた。胃カメラを二度飲んで、ようやく潰瘍が見つかった。
結果的に胃潰瘍で、しかも重篤ではなかったが、この結論を導き出すのに、約ひと月ものあいだ母はほとんど運動らしきことをせず、ベッドの上で過ごす日々を送った。上げ膳据え膳、簡易トイレもベッド脇にセットしてもらい、移動は車椅子。
この病院でのひと月ですっかり筋力が衰えてしまった。
ほんとうに、それでなくても衰えていた母の筋力は、この悪夢のひと月で徹底的に弱ってしまったのだった。
退院して帰宅した母は、自分の「歩けなさ」に驚き、戸惑った。杖を使えばすんなりと移動していたのに、杖をどうついても、足がついてこない。足を思う場所へ引き寄せることができないのだ。
以前から、立ち座りに難があったが、自力では腰が上がらなくなった。ダイニングに居る時は、テーブルにしがみついてようやく立つ。ベッドからは、そばにある家具をつかみ、ベッドサイドをつかみ、そのほかあらゆるものにつかまって立つ。
前からしょっちゅう転倒していたが、より頻繁になった。
6月からデイサービスに通うことになったが、入院騒ぎがなかったら4月から通所予定で進めていたことだった。ただし、当初は「昼間たいしたことをせずに家に居るより出かけたほうがいいから」という理由だった。介護度「要支援2」の母は、たいていのことを自分でできる人、と認定されていた。……はずなのだが、入院のせいで歩行とそれにまつわる動作が極端に困難になり、受け入れる施設側スタッフにも戸惑いの色が見えた。その人にどの程度手を取られるか、は受け入れ側にとって大きな問題だ。
介護度の認定をやり直すことも検討したが、私の都合で土日しか来てもらえないので日程調整にまず非常に苦労する。認定されたらされたで「会議」を開催せねばならずその日程調整。最初の認定で振り回された記憶がまだ新しくて(それはケアマネも同様だったと思う)、ちょっとげんなりしていた。そんなこんなしているうちに更新時期が来る……と思って変更申請はしなかった(これについてはたいへん後悔した)。そして、デイサービスセンターには、「要支援」のままで母をほぼ「介護」していただくこととなった。
デイへ通所する日々にも慣れ、孫の不在にも慣れ、動かない体にも慣れ、母は起伏のない日々をそれなりに暮らしているが、弱った筋力はますます弱まる一方で、家庭内ですら「できること」が減っていく。できることが減ると動くことがますます減る。
母自身もこれではいかんと、天気のいい日は散歩に出たりする。
しかし外へ出ると甘いお菓子を売る店がわんさかある(笑)のでつい買い込み、厳禁されているのにたらふく食べてしまい、血糖値がまた上がって主治医に叱られる(笑)。
もうひとつ、歩くことは糖尿病フットケアの医師から禁じられている。
神経障害を起こしているせいで胃潰瘍の痛みにも無感覚だったのだが、退院直後、足を引きずってしか歩けなくなっていて、そのせいで足に大きな靴擦れをつくった。それが悪化し、手当を尽くしても、もう10か月、治癒しないのだ。靴擦れは皮膚潰瘍となり、膿んでは緩解、膿んでは緩解を繰り返している。足から出血していても気づかず、まったく痛いと感じないまま、ばい菌が入ってしまったのだった。フットケアドクターによると、高齢や糖尿による回復力の低下もあるが、歩いてできた傷だから歩くことが最も治癒を妨げる。早く治すには歩かないことがいちばんだ。あるいは、傷口に圧力がかからないような特殊な矯正靴をオーダーし、四六時中それを履く。
非現実的。
ダイニングテーブルの上に置いたポータブルプレイヤーに高齢者体操のDVDをかけ、椅子に座ったままでもできる体操レッスンを観ながら、えっちらおっちら、見よう見まねで手足を動かす。そんなことも日課に加わった。歩くのが御法度なら、歩かずに運動すべし。
しかし、当然のことながら、こんなことでは筋力低下に歯止めはかからない。
先月初め、路上で転倒した。止まってくれたタクシーに乗ろうと、近寄りかけてバランスを崩したのだ。
その数日後、今度は家の中でバランスを崩したらしい。本人もうろ覚えでもはや想像するしかないが、転倒した時に冷蔵庫か何かの角でしこたま額を打ったらしい。ジャイアンに殴られたのび太だってこんなひどくはないよというくらい、大きな黒い輪っかが目のまわりにできてしまった(まだ消えない)。
派手な転倒を繰り返して命取りになってしまう前にできることがあるはずだ。「なんとかしてください」と訴えた。母が要介護状態になるのを防ぐために「介護予防」の名目で「要支援2」がつけられたはずだ。「介護予防」のためにケアしてくれるんなら、予防してもらわなくてはならない、なんとしても。筋力アップのためのリハビリを受けられるように手を打ってくれ。「要支援2」の認定が行く手を阻むなら、あらゆる手を使って介護度が上がるように計らってくれ。月イチで訪問したり電話したりして母の様子を窺っているケアマネも、事態は外から見るより深刻だと気づいてくれたようだ。
京都は高齢者の割合が非常に高いので、たとえば特養ホームの「待機高齢者」の数がすごいのだ。「待機児童」の比ではない。冗談みたいな、ほんとの話。リハビリデイサービス施設も同様で、キャンセル待ちではある。しかし、母は、何か所かお試し体験をして、運動すればもっとよくなれるかもしれないという手応えを感じたらしい。
「運動しな、あかんな。ああいうとこへ行ったら、できるな」
日常生活で「できる範囲」のことだけするのとは大きく異なるということを実感したようだ。
リハビリに通える日が、待ち遠しいな、母ちゃん。
なかなか興味深い体験だった。
介護保険施設にもかかわらず、来ている高齢者の元気なこと(笑)。アンタたちほんまに要介護老人なのか? いや、たいした運動をしているわけではない。ただ、みなさん、表情が明るく、生き生きしておられるので、ことさらお元気に見えるわけだ。
母がとても、みすぼらしく見える。
高性能なマシンが並び、おじいさんおばあさんたちが思い思いにゆるゆるとトレーニングするさまは、スポーツジムとは明らかに異なるけれども、現在母が通うデイサービスセンターの雰囲気にはない「活気」がたしかにある。
マシンを利用する高齢者は、要介護老人のはずなのに、なんとなくスポーツマンの凛々しさを表情に湛える。
「お試し体験」でマシンに座らせてもらう母。言われるままに手足を動かす母。
これほどエクササイズマシンの似合わない図があるだろうかと思うほど、母の様子は、この空間に場違いであった。
母は、ちょうど一年前に胃潰瘍のためひと月入院した。
胃潰瘍だから、入院したのではなかった。いきなり食欲が減退し、食べようとしても食べられない。そんな状態が続いた。
それよりさかのぼること1週間くらい、転倒して鎖骨を骨折していたのだが、そのこととの関連はなさそうであった。咀嚼ができなくなったのかと思い、おかずをすべてポタージュ状にしたり、 飲み物にとろみ剤を入れて飲み込みやすくしたり、手を尽くしたが、ひと口、ふた口くらいでもう受けつけない。母は「なんでかわからへんけど、食べられへん」というばかりで、痛みや苦しさをまったく訴えない。
当時、私は朝食は一緒に摂ったが、昼・夜の食事は準備してつくっておき、温めればいいだけにして出勤していた。
午後の途中で、娘が学校からいったん帰宅し、洗濯物を取り込み、母が食べたかどうかを見てくれる。
「おばあちゃん、何も食べたはらへん」とメールが来る。
非常に心配される状態だったが、母につきっきりでいるわけにいかなかった。
仕事はいつものサイクルで繁忙のピーク。さらに、娘がバレエ発表会の本番直前であった。衣装のサイズ調整やシューズの滑り止め、舞台小道具の制作など、連日針仕事にも追われていた。さらには楽屋番として差し入れの買い出しまで。
なにより、母は孫の舞台をことのほか楽しみにしていた。今主治医に見せると「即入院」と言われそうな予感がして、発表会が終わるまで頑張ってくれの内心祈りながら、母の口元にポタージュを運んだ。
舞台が終わり、翌日すぐに糖尿病をみてくれている主治医を受診したら、消化器系の医院に紹介され、エコーで胃腸を診察。だが異常は見つからない。
翌日も、翌々日も食欲は戻らず、目に見えてやせ細ってきた。仕事で動けないので、弟嫁に頼んで主治医に診せた。栄養失調。すぐに点滴された。体重も激減。ただし、血糖値はすこぶるよかった。食べてないから当然だが、皮肉なもの。
すぐにベッドの空きを検索してもらい、家から近くの総合病院で受け入れてもらうことになった。とにかく原因不明の食欲減退による栄養失調ということで、連日、一日中点滴をした。
並行して、いくつもの精密検査が行われた。胃カメラを二度飲んで、ようやく潰瘍が見つかった。
結果的に胃潰瘍で、しかも重篤ではなかったが、この結論を導き出すのに、約ひと月ものあいだ母はほとんど運動らしきことをせず、ベッドの上で過ごす日々を送った。上げ膳据え膳、簡易トイレもベッド脇にセットしてもらい、移動は車椅子。
この病院でのひと月ですっかり筋力が衰えてしまった。
ほんとうに、それでなくても衰えていた母の筋力は、この悪夢のひと月で徹底的に弱ってしまったのだった。
退院して帰宅した母は、自分の「歩けなさ」に驚き、戸惑った。杖を使えばすんなりと移動していたのに、杖をどうついても、足がついてこない。足を思う場所へ引き寄せることができないのだ。
以前から、立ち座りに難があったが、自力では腰が上がらなくなった。ダイニングに居る時は、テーブルにしがみついてようやく立つ。ベッドからは、そばにある家具をつかみ、ベッドサイドをつかみ、そのほかあらゆるものにつかまって立つ。
前からしょっちゅう転倒していたが、より頻繁になった。
6月からデイサービスに通うことになったが、入院騒ぎがなかったら4月から通所予定で進めていたことだった。ただし、当初は「昼間たいしたことをせずに家に居るより出かけたほうがいいから」という理由だった。介護度「要支援2」の母は、たいていのことを自分でできる人、と認定されていた。……はずなのだが、入院のせいで歩行とそれにまつわる動作が極端に困難になり、受け入れる施設側スタッフにも戸惑いの色が見えた。その人にどの程度手を取られるか、は受け入れ側にとって大きな問題だ。
介護度の認定をやり直すことも検討したが、私の都合で土日しか来てもらえないので日程調整にまず非常に苦労する。認定されたらされたで「会議」を開催せねばならずその日程調整。最初の認定で振り回された記憶がまだ新しくて(それはケアマネも同様だったと思う)、ちょっとげんなりしていた。そんなこんなしているうちに更新時期が来る……と思って変更申請はしなかった(これについてはたいへん後悔した)。そして、デイサービスセンターには、「要支援」のままで母をほぼ「介護」していただくこととなった。
デイへ通所する日々にも慣れ、孫の不在にも慣れ、動かない体にも慣れ、母は起伏のない日々をそれなりに暮らしているが、弱った筋力はますます弱まる一方で、家庭内ですら「できること」が減っていく。できることが減ると動くことがますます減る。
母自身もこれではいかんと、天気のいい日は散歩に出たりする。
しかし外へ出ると甘いお菓子を売る店がわんさかある(笑)のでつい買い込み、厳禁されているのにたらふく食べてしまい、血糖値がまた上がって主治医に叱られる(笑)。
もうひとつ、歩くことは糖尿病フットケアの医師から禁じられている。
神経障害を起こしているせいで胃潰瘍の痛みにも無感覚だったのだが、退院直後、足を引きずってしか歩けなくなっていて、そのせいで足に大きな靴擦れをつくった。それが悪化し、手当を尽くしても、もう10か月、治癒しないのだ。靴擦れは皮膚潰瘍となり、膿んでは緩解、膿んでは緩解を繰り返している。足から出血していても気づかず、まったく痛いと感じないまま、ばい菌が入ってしまったのだった。フットケアドクターによると、高齢や糖尿による回復力の低下もあるが、歩いてできた傷だから歩くことが最も治癒を妨げる。早く治すには歩かないことがいちばんだ。あるいは、傷口に圧力がかからないような特殊な矯正靴をオーダーし、四六時中それを履く。
非現実的。
ダイニングテーブルの上に置いたポータブルプレイヤーに高齢者体操のDVDをかけ、椅子に座ったままでもできる体操レッスンを観ながら、えっちらおっちら、見よう見まねで手足を動かす。そんなことも日課に加わった。歩くのが御法度なら、歩かずに運動すべし。
しかし、当然のことながら、こんなことでは筋力低下に歯止めはかからない。
先月初め、路上で転倒した。止まってくれたタクシーに乗ろうと、近寄りかけてバランスを崩したのだ。
その数日後、今度は家の中でバランスを崩したらしい。本人もうろ覚えでもはや想像するしかないが、転倒した時に冷蔵庫か何かの角でしこたま額を打ったらしい。ジャイアンに殴られたのび太だってこんなひどくはないよというくらい、大きな黒い輪っかが目のまわりにできてしまった(まだ消えない)。
派手な転倒を繰り返して命取りになってしまう前にできることがあるはずだ。「なんとかしてください」と訴えた。母が要介護状態になるのを防ぐために「介護予防」の名目で「要支援2」がつけられたはずだ。「介護予防」のためにケアしてくれるんなら、予防してもらわなくてはならない、なんとしても。筋力アップのためのリハビリを受けられるように手を打ってくれ。「要支援2」の認定が行く手を阻むなら、あらゆる手を使って介護度が上がるように計らってくれ。月イチで訪問したり電話したりして母の様子を窺っているケアマネも、事態は外から見るより深刻だと気づいてくれたようだ。
京都は高齢者の割合が非常に高いので、たとえば特養ホームの「待機高齢者」の数がすごいのだ。「待機児童」の比ではない。冗談みたいな、ほんとの話。リハビリデイサービス施設も同様で、キャンセル待ちではある。しかし、母は、何か所かお試し体験をして、運動すればもっとよくなれるかもしれないという手応えを感じたらしい。
「運動しな、あかんな。ああいうとこへ行ったら、できるな」
日常生活で「できる範囲」のことだけするのとは大きく異なるということを実感したようだ。
リハビリに通える日が、待ち遠しいな、母ちゃん。
2014年4月9日水曜日
"C'étaient tellement beaux, les cerisiers"
久しぶりに会った知人は、大きなマスクを着けていた。
「すみません、ご無沙汰ばかりの上にこんな顔で」
「いえ、そんな。花粉症ですか」
「風邪を引きまして。ここ数日の急な冷え込みで、すっかり」
「寒かったですねえ、ほんとに」
「こういう気温の乱高下にカラダがついていきません。歳とりましたよ」
先週末から今週始めのほんの3、4日だったが、花冷えというにはあまりにも冷酷な寒さに見舞われた。その前の数日は日中の気温が24度に達するなどすっかり春だったので、我が家では暖房器具をすっかり片づけた。すると、空は晴れているけれど風が冷たく強く、夕方になるとしんしんと冷気が下へ降りてきて、フローリングの床が冷たい冷たい……。
母の部屋の床暖房の、設定温度を再び上げた。
京都の家は、夏の暑気を和らげる構造になっているので、冬はとことん寒く、こうした季節の変わり目に、順序を裏切るかたちで冷え込みが来たりすると寒いことこの上ない。
寒いなあ、寒いなあと母が言う。
「せっかく冬のもん片づけたけど、また出して、着てんねん」
なかなか衣替えもうまくいかない(笑)。
しかしあと2、3週もすれば「夏」になる。
暑くなってから慌てて夏支度はたいへんなので、今から少しずつ家を夏仕様に替えていく。
知人のオフィスをあとにし、まちなかを自転車で走る。
真昼。平日のこんな時間に繁華街を走るのは何年ぶりだろうか。
あっちの角を曲がり、こっちの道を突き抜けて……と目的なく縦横に走る。
そこここに、満開の桜が見える。まったく、桜はそこいらじゅうにあり、今が盛りと開いている。
デイサービスセンターでは、昼食後のレクレーションの時間に外出させてくれることもある。先週、気温が上がった時に母たちのグループは岡崎公園のほうへ連れていってもらったらしい。入場料の要るところには入れないので、お金を使わなくてもよく、車を停められて、車椅子でも通行できて、となると、こんなにいたるところに桜が咲いてても、意外と見に行けるところは少ないのだと、スタッフが言っていたそうだ。
まったく、そうだな。美しいところは神社仏閣に集中している京都は、石畳や石段だらけで、まこと足下の不安定な人間には優しくないのだ。
「桜、きれいやったわあ。満開やったわあ」
その日帰宅した母はほんとうに幸せそうであった。
そろそろ、桜も散り始める頃である。
「すみません、ご無沙汰ばかりの上にこんな顔で」
「いえ、そんな。花粉症ですか」
「風邪を引きまして。ここ数日の急な冷え込みで、すっかり」
「寒かったですねえ、ほんとに」
「こういう気温の乱高下にカラダがついていきません。歳とりましたよ」
先週末から今週始めのほんの3、4日だったが、花冷えというにはあまりにも冷酷な寒さに見舞われた。その前の数日は日中の気温が24度に達するなどすっかり春だったので、我が家では暖房器具をすっかり片づけた。すると、空は晴れているけれど風が冷たく強く、夕方になるとしんしんと冷気が下へ降りてきて、フローリングの床が冷たい冷たい……。
母の部屋の床暖房の、設定温度を再び上げた。
京都の家は、夏の暑気を和らげる構造になっているので、冬はとことん寒く、こうした季節の変わり目に、順序を裏切るかたちで冷え込みが来たりすると寒いことこの上ない。
寒いなあ、寒いなあと母が言う。
「せっかく冬のもん片づけたけど、また出して、着てんねん」
なかなか衣替えもうまくいかない(笑)。
しかしあと2、3週もすれば「夏」になる。
暑くなってから慌てて夏支度はたいへんなので、今から少しずつ家を夏仕様に替えていく。
知人のオフィスをあとにし、まちなかを自転車で走る。
真昼。平日のこんな時間に繁華街を走るのは何年ぶりだろうか。
あっちの角を曲がり、こっちの道を突き抜けて……と目的なく縦横に走る。
そこここに、満開の桜が見える。まったく、桜はそこいらじゅうにあり、今が盛りと開いている。
デイサービスセンターでは、昼食後のレクレーションの時間に外出させてくれることもある。先週、気温が上がった時に母たちのグループは岡崎公園のほうへ連れていってもらったらしい。入場料の要るところには入れないので、お金を使わなくてもよく、車を停められて、車椅子でも通行できて、となると、こんなにいたるところに桜が咲いてても、意外と見に行けるところは少ないのだと、スタッフが言っていたそうだ。
まったく、そうだな。美しいところは神社仏閣に集中している京都は、石畳や石段だらけで、まこと足下の不安定な人間には優しくないのだ。
「桜、きれいやったわあ。満開やったわあ」
その日帰宅した母はほんとうに幸せそうであった。
そろそろ、桜も散り始める頃である。
登録:
投稿 (Atom)