2014年10月14日火曜日

L'état sérieux? (1)

週末、母が発熱した。
金曜日はデイサービスセンターにいたが、来所時に熱が高めであったということで入浴はやめ、午後再度検温すると38.5度だったという。
帰宅した母はほとんど歩行ができなかった。

その日は朝から異変続きだった。早朝まだ暗いうちに、トイレに行こうとしてベッドから立ち上がりそこね、転倒したらしい。私が起きて階下へ降りるとベッドの脇で情けない顔をして座っていた。母は床へぺたっと腰が着いてしまうともう自力では起き上がれないし、座る姿勢にもなれない。ここでの場合はベッドにもたれて座姿勢を保っていたにすぎない。だいぶ長いことそうしていたようである。
猫が来てさかんににゃーにゃーと声をかけてくれたらしい(笑)。猫は猫なりに心配して、階下の異変を私に知らせてくれたのだろうか。この日の朝、私は猫があまりに耳元でにゃーにゃーいうので5時に目が覚めてしまった。餌をねだって朝からうるさいのはいつものことだからたいして気にも留めずゆっくり起床したのだった。
ところが、母が床で固まっている。

こういうとき、私はまるで役に立てない。腰痛と背痛、両手首痛があるせいで、45キロの母を抱え上げたり支えたりできないのである。昨冬、検査に訪れた病院の待合室で、椅子から立ち上がりそこねた母を咄嗟に支えて腰にドカーンときた。私の腰痛歴は高校1年生のときからなのでもうほぼ35年のベテランであり、腰に負担のかからないような動作で日々生きておるゆえ、ふだんはなにごともないように振る舞っているのだが、突発的な事象に遭遇したり姿勢を変えずにいることを長時間強いられたりすると激痛に見舞われ、とたんにアカンタレな体になってしまう。と言うと、そうした事態は稀なことなのだなと思われるかもしれないが実は毎日そうなのである。「姿勢を変えずに長時間」には就寝も含まれる。だから毎朝激痛と闘いながら起床するのだ。
そのようにとってもカワイソーな私の毎朝は、ゆっくりと少しずつ体を端から順に動かしながら体内の巡りを潤滑にしながらアイタタアイタタアイタタと呪文のようにぶつぶつつぶやきながら、始まる。
やっとふつうに動けるようになると起床、階下へ降り、洗濯と食事の仕度をはじめる。私は私で一日痛みなく無事に過ごすために用心に用心を重ねて慎重に寝起きしているありさまだというのに。
なのに、母が床で固まっている。

「どうしたん? 落ちたん?」
「なんや、知らんにゃけど、うまいこと立てへんかった」

母の左足が転倒のはずみなのか、お尻の下に敷かれていた。まずその左足を前へ出す。
「いたた」
左足は悪くないほうの足なので、大事に健康を保たなければならない。もしかしたら怪我したのでは、と思ったが、どうやら左足は無事のようだ。しかしこのままでは起きられないし、起こせない。なんとか自力で中腰くらいまでは上がってもらわないと、支えたくても重すぎる。
「トイレ行きたい」
状況を理解しているんだかいないんだか、希望だけははっきりおっしゃるのである。
ベッド下にはマットを敷いてある。キッチンマットみたいなやつだ。ちょうどそのうえで動けなくなっているので、マットの裏の滑り止めを引きはがし、母をマットに乗せた状態でマットごと引きずり、壁際へ寄せ、トイレ近くまで移動(トイレは寝室内にあるのだ)。壁には手すりがある。なんとかつかまり立ちができるように、手すりをつかませてみる。もう一方の手は歩行器のハンドルをもたせてみる。よいしょと立ち上がれないだろうか。
……全然ダメ。
母は両腕ともけっこう力があり、握力もしっかりある。両脚のへにょへにょ具合とは雲泥の差。しかし、母も自分の腕の力だけで体を持ち上げなくてはならない事態になるなんて想像していなかったであろう。
以前は、四つん這いの姿勢から何かにつかまることで起き上がることができた。しかし今は、その四つん這いの姿勢になるためのハードルはとてつもなく高い。手をいったん手すりから離して床につき、膝を立て腰を上げてみようとしたが、ダメ。大きく曲がった背骨のせいで体が傾き、傾くに任せて倒れてしまう。もう一度起こしてとにかくどこかをつかませ、わずかに浮いた脇に床に這いつくばった私が頭から突っ込んで全身の力で持ち上げてみる。重い。これで上体を起こせたが、今度は足を立たせなくてはならないが、上体を起こした姿勢を維持できないので、腿を上げ、膝を出し、足の裏で床を踏ん張る段階までいかないうちに倒れてしまう。そしてやり直し。パワーのない母も疲れるだろうが、私もへとへと。

そんな状態であっという間に7時になった。朝食の時間だ。用意はしたのだが、母が動けないままだ。途方に暮れていると、
「おはようございまーす」
大工さんが来た! 救世主!
我が家は今部分的に工事中。7時過ぎから5時過ぎまで大工さんが作業をしに来る。この日は、大工仕事の部分が終了する予定日だ。はりきって仕事に取りかかろうとする大工さんに「あのーすみませんがちょっと手伝ってもらえます?」

床で動けなくなっている母を、大工さんはせーの、はいっと起こしてくれた。ああやはり殿方の馬力は桁違い。感謝。
なんとか立つことのできた母だが、歩行器につかまっても、歩けない。しかし歩く以外には移動方法がない。2、3センチずつ、歩くというより足を交互に前へ出す。手すりにへばりつきながらようやくトイレへ。
トイレから立ち上がるのにも時間を要し、トイレから出て再びベッドサイドへ戻って着替えるのも、いつもの倍以上の時間がかかった。転倒から起き上がるまでの間にエネルギーをすべて費やしてしまったかのように、母の動きは前日までと打って変わって鈍かった。
ようやく食卓に着いたら、8時を過ぎていた。

デイサービスに電話をし、送迎時間を少し遅らせてもらうように頼んだ。

週に2回、9時前に出て3時頃帰る母の通所に合わせて、私は外出のスケジュールを立てている。この日も10時から2時半まで3件のアポを詰めて入れていた。だが母の仕度が進まない。9時45分、ようやくデイの車に乗せることができた。私はアポ先に電話をし、約束の時間に遅れることを告げた。まったく大わらわの朝だったが、デイヘ行ってくれれば職員さんたちの目があるのでひと安心である。

と、思っていたのだが、甘かった。
3件めのアポを終え、帰路に着こうとすると電話が鳴った。デイサービスセンターの主任さんだった。熱がありますがお宅までお送りしますか、それともお医者さんに直行もできますが、という内容だった。かかりつけ医は診察時間外だ。自宅までひとまず送り届けてくれと答える。
帰宅して待っているとほどなくデイの車が到着。主任さんが付き添って家の中まで入り、ダイニングの椅子に座らせてくれた。
「来所時もお熱があって、そのあとどんどん高くなって」
「すみませんでした。朝、何度も体を抱えたけど、熱っぽさはなかったので……。食事はしましたか?」
「主食は半分くらい、おかずは7割、8割くらい食べはりました」
「そうですか」
「お元気がないので……横になりましょうかと声をかけても絶対嫌やと言わはりまして」
毎回、体操やゲーム、クイズ遊びなどレクレーションがあるのだが、何にも参加せずソファに座ってぼーっとしていたそうだ。

少し落ち着いてから検温すると38.7度。
以前外科でもらった頓服薬をとりあえず飲ませることにする。
「寝なあかんよ」
「そうか、しゃあないな」
寝室まで長い道のりを少しずつ進む。
トイレまで長い道のりを少しずつ進む。
ベッドに座り、着替えるのが大仕事。
着替えて、ベッドに横たわるのも大仕事。

3時40分。母はすぐ眠った。派手ないびきが聞こえる。

2014年10月8日水曜日

"Je ne comprends pas pourquoi je suis blessé la tête."

ある水曜日の朝。
母はいつもの水曜日と同じようにリハビリデイサービスヘ行くため身支度をしていた。夏の間はTシャツとズボンという軽い服装そのままで出かけられたが、朝夕少し涼しくなってきていたので、一枚羽織りものを取り出して、歩行器にかばんと一緒に乗せてダイニングまで歩いてきた。その姿は、台所の流しで食器洗いをしていた私の視界の隅っこに入っていた。

次の瞬間、ギギッと車輪と床が擦れる音(歩行器をブレーキをかけたまま引きずった時の音)がして、振り向いたら母の体が今まさに床に倒れようとしていたところだった。わああああ、危ない!

ドッタアアアアアアッッッ……

ものすごい音がした。母はよく転倒するが、これまでになくパンチの効いた音だった。腰の骨が折れたぞ。私は咄嗟にそう思った。母の体はお尻から床に落ち、落ちた勢いで体は仰向けに寝そべるような恰好になった。自力で起き上がろうともがく母に近寄り、怪我してるかもしれんから無理に動いたらアカン、と言い終わらないうちに私はええっ何これなになにどうしたのっと叫んでいた。
「なんえ? なんかあんの?」
母はきょとんとして私の顔を見ている。
「ばあちゃん、頭から血が出てきたよ、今、頭打った? そうは見えへんかったけど」
「打ってへん」
手を伸ばしてティッシュを数枚引き出し、前頭部を押さえた。どうしたんどうしたんと娘が駆け寄る。「すごい音、したなあ。トイレまで聞こえてたで。うわ、やばいこの血、さっきの音、頭?」
「いや、頭は打ったはらへんと思う。なんでかわからへん、どこかに当たったんやろけど……とにかく電話するし、ちょっと支えてて」
私は救急車を呼び、リハビリデイサービスに欠席の電話をした。ほどなく救急車が到着し、隊員のみなさんがてきぱきと処置をし、搬送先を手配してくれた。

「えーと、このかたお名前は。おいくつですか。ここにおひとりでお住まいですかね、あなたヘルパーさん?」
「へ、ヘルパー? さっき母が転倒して怪我をしたと電話でいいましたけど」
「え? あ、そう、娘さんですか。ご家族と住まわれてるんですか、ああそうですか」

失礼なやつだ、と思いながら、隊員のセリフからは独居老人の多さが窺えるいっぽう、ちゃんと家族と一緒に住んでるお年寄りがなんで家の中でコケるんだよ、みたいな非難めいた色を感じ、それに反論できない自分を発見したりする。

勤めを辞めて家に居ることにしたのは、母から目を離さないためである。しかし、だからといって1秒も目をそらさず見続けることなんてできない。私は今すべての家事をしている。台所は対面式ではないので炊事や洗い物をしているときは母に背を向ける。洗濯機も裏にあるし、物干しは屋上だ。母は1階で、私は2階で就寝する。
そうした、母から目を離すわずかな時間の間に母は転倒したり椅子からずり落ちたりベッドから転落したりする。以前は杖を持ち、今は歩行器にすがって歩いている。母の部屋にもトイレにも浴室にも手すりがある。それなのに、その杖や歩行器のハンドルや手すりを掴み損ねて転倒されては、これ以上打つ手がないではないか。

この日の朝の転倒は、立ったまま上着を羽織ろうとしたことが原因だった。
立ったまま服を着る。つまり、服を持ち、袖を通すという動作は、どこか手すりを掴んでいたり、歩行器のハンドルを持ちながら、ではできない。両手がフリーになる必要がある。すなわち、二本足で「自立」していなければならない。
母は、二本足で自立できない。
何度も痛い目をして、じゅうぶんわかっているはずなのに、いまなお母はつい両手を離したり、手すりやハンドルを握り損ねて「フリーハンド」状態になっては転倒する。
なぜ、何も掴まずに立っていようなどと思うのか、不思議でならないが、「かつてできていたはずのことができなくなってしまう」ことを自覚する難しさは、おそらく私たち「若造」の想像の域を超えているのだろう。母は明らかに、戸惑っている。自分の活動領域が急速に狭まり、日に日に自由の利かなくなる体に退化していることに。その老化、あるいは病気の進行の速度に、理解が追いつかないのだ。

Mちゃんの可愛い赤ちゃんを見て、漬物屋のおかみさんとしばし談笑して、ちょっぴり活力のおすそ分けをしてもらったせいか、元気な振る舞いを見せてくれるのはいいのだが、調子に乗って「以前のように」動くと思わぬ落とし穴に落ちてしまう。今回はその悪しき一例と言っていい。それでなくても、リハビリデイサービスの日の朝は毎回どことなく「今日もはりきって行きましょう!」的な、母なりにハイテンション気味なのが感じられるし。
というふうに、いくつかの「活力アップ要素」が働いて無謀にも両手を離して二本足で立つという行動に出て、転んじゃったわけである。

「なんで頭を怪我したんやろ。お尻はキツう打ったけど、頭は全然打ってへん。何で頭から血が出たんやろ」
母はいつまでもつぶやいていた。同感。今回の怪我は謎だ。我が家のどこかにミステリーゾーンがあるのか、どこかにちっちゃい小悪魔さんが棲んでいるのか。

幸い怪我は大事に至らなかったが、一瞬大騒ぎをした。
救急車などが我が家の前に停まったので、お向かい、お隣をはじめ町内会の面々が取り囲んで騒然としていた。みなさん、お騒がせしてすみません。

2014年9月29日月曜日

"Ce n'est pas évident, voir un bébé, mais il est toujours si beau, le bébé."

今月初め、予定日より一日早く、Mちゃんに男の子が誕生した。3000グラムを超える大きな赤ちゃんだ。比較的安産で、イタタ、と言ってる間に生まれたとな。
めでたしめでたし。

さて、Mちゃん夫婦の新居は東海地方なのだが、今回は里帰り出産をしたのである。Mちゃんが選んだ産院はウチの近所。私の足なら歩いて5分、信号待ちに遇ったらプラス1分くらいかな。古くからあるので地域では馴染みの産院である。母もその名前をよく知っている。だから「生まれたら、見にいこな」と、Mちゃんが大きなお腹を抱えてウチを訪問してくれたときからそれはそれは楽しみにしていた。

誕生の一報を聞いて私たちはさっそくMちゃんを訪ねる段取りをした。母は二つ上の実姉も誘うという。
「そんなら早めにいうて、お祝いとか打ち合わせしといたほうがええんちゃうの」
「そやなあ。姉さんに電話するわ」
と言い終わるやいなや母は電話のそばへ行くため腰を上げようと何回もトライしようやく電話機にたどり着き、そらんじている伯母の番号を押した。何度も同じフレーズが母の口から繰り返されて、ようやく話がまとまったらしい。
「明日、10時にウチへ誘いに来るて」

伯母は母より年が上で過去に大病も患ったのに、背筋は伸びて足もしっかりしていて、母と一緒にいると母が伯母の十歳上の姉みたいに見える。ところが若干物忘れが激しい。ここ何年かの間に不幸が何度もあったので、親族どうし会う機会が多かったが、母の兄弟姉妹たちは皆頑健でしゃきっとしているように見え、その実、やはり頭は母がいちばんしっかりしているということを、私は幾度となく確認した。いや、もちろんそうでないと困るが、動かないで日がな一日ボサーと座っている母にボケの兆しはなく、お稽古事に行ったり畑仕事を続けたり写経に通ったりしている母の兄や姉は、どうも会話がかみ合わなかったり、伝言が伝わらなかったり、昨日と同じ話を今日もしたり、といささか心もとないのである。

翌日、10時前になったので母はそろそろと玄関口のほうへ動き始めた。伯母がきたらすぐに出られるように。しかし10時を少し過ぎた頃電話が鳴った。伯母だった。
「お祝いてなあ、やっぱり午前中に行かなあかんやろか」
「え? 伯母ちゃん、今日来れへんようになったん?」
「いや、そうやないけど、まだこれから用意するし」
「そうなん? ウチのお母ちゃん10時に約束したて言うたはったえ」
「あ、そう? 10時て。今何時……10時まわってるなあ」
「待ってるから用意できたら来て。とにかく母に代わるし、そう言うてくれる?」
といって母に受話器を渡した。
「あんた、どないしてんの……待ってるえ……11時半までに来れへんか? そうか、ほな待ってるさかい来てや」

子機を私に渡しながら「11時に行けるっていわはんねん、けど、私は無理やと思うねん」とつぶやく母。
「ほな、気長に待ってたげよ。産院はすぐそこやし。11時に行くって伯母ちゃんが言わはったんやったら来ゃはるやろ」
と私は応じたが、11時を10分ほど過ぎたあたりから母がぶつくさと文句を言い出した。
「ほんまに姉さん、何したはんにゃろ」
「11時に来るのなんか無理やってさっき自分で言うてたやん、予想してたとおりやん」
「言うてたけど、それでも来ゃはるかなと期待したのに」
11時20分。
「もうほんまに、何してんの」
「これからぜったい姉さん誘わへんわ」
「いいかげんにしてほしいわ」
怒り心頭である(笑)。
しかしいくらなんでもそろそろ到着だろうと思い、私は外出の用意の仕上げにかかった。
11時半を2分ほど過ぎて、伯母が来た。「ごめんごめんー」
まあ、なんつーか、よかったよかった。というわけで3人で出かけた。

しかしほんとうにたいへんだったのはここからである。

母の足だと15分はかかるかな、と思っていたら25分かかった。近所とはいえ、その産院はいつもは歩かない方角にあり、道に馴染んでいないので、思わぬ段差や突起物に遭遇しやしないかと慎重に歩を進めざるをえなかったことも理由のひとつであるが、とにかく足の力の衰弱は甚だしい。リハビリデイサービスも、まったく効果なしである。

ようやくたどり着いた産院は、玄関口に高い高い石段があった。これでは手押し車は役に立たない。伯母と二人掛かりで母の足を段に乗せ体を引き上げる。ようやくドアを通過すると今度は「スリッパにお履き替えください」の札が。2足制だとぉ〜? 母は立って靴を脱ぎスリッパに履き替えるなんて芸当はできないのだ。
「すみません、椅子を貸してください」
受付には数人の女性がいて、私たちが入るのを見守っていたようだが、様子を見て声をかけるとか手伝おうとかしに来いよ、と私は内心あきれ果てていた。しかし当然かもしれない。ここは産婦人科医院だ。高齢者の来るところではない。職員も気が利かないのだ。
ようやく、ウチの母が相当に動作に難儀なことが伝わったのか、椅子を持ってきた女性が「申し訳ないんですけど、エレベータはあちらの奥です」と待合室の向こう側を指さした。そして「ここも昇っていただかないと……不便なつくりですみません」と待合室手前の3段ほどの小階段を指し示した。私と伯母は母の両脇を抱えて昇らせた。
「はあ、ひと騒動やなあ。かんにんえ、私のためになあ」
すまなそうな顔で姉に詫びる母。さっき怒りまくってたのが嘘のようだ。ま、これでおあいこだ。
それにしても、入口の大きな石段といい、室内のあちこちにある段差といい、ひとつ間違えれば妊婦さんだって転倒の恐れはある。この産院、建物のつくりはいささか前時代的だ。これだと遠からず妊婦も来なくなるんじゃないかと思うけれども……。

そしてようやくようやくようやく(笑)たどり着いたMちゃんの部屋。赤ちゃんも小さなベッドに眠っていた。
「わあ、ちっちゃーい! 可愛い〜〜」オババ3人で歓声を上げる。
Mちゃんのひとまわり年上のダンナもいた。私は笑いがこみ上げるのをなんとか押さえながら「初めまして」と簡単に挨拶をした。ダンナは腰の低い、好感の持てる態度だったが、知らない人ばかりが来てお祝いを置いていったりするのにどう対処したらいいのかわからないふうだった。ちゃんと挨拶しないといけないんだけど何をなんて言おう、みたいな顔をして、少々うろたえているふうだったがでも嫁のベッドの端にちょこんと座り、たいへんリラックスしたふうでもあった。ま、オババ3人にとっては彼のことはこの際どうでもいいのであった。

私が代表で、赤子を抱っこさせていただく。
ちっちゃい。軽い。こわれそうだ。私の腕の中で、しきりに顔をくちゃくちゃさせて、突然賑やかになった周囲の音が耳障りなのだろうか、でも目はなかなか開かず閉じたまま、しかし口は何度も大きく開けてあくびをした。
「ごめんなあ、おねむやのに。おばちゃんうるさいなあ」
冬に友人に子が生まれ、また別の、こことは違ってたいへん新しい産院を訪ねたときも、抱っこしてしきりに話しかける私のことなど全然見ずに、赤子は顔いっぱいに口を広げてあくびをしていた。そうそう、子どもは寝るのが仕事。寝てても、顔をくしゃくしゃにしても、あくびばかりしていても、赤ちゃんって美しい。命の発露そのもの。真っ赤な小猿みたいだけど、光り輝いているのだ。

Mちゃんを訪ねるまでの長い長い旅路(笑)の話を少しだけ披露した。
「ほんまになあ、私がこんな足やから、たいがいやないわ、ここまで来るの。赤ちゃん見に来るのってひと仕事やわ」
「ありがとうございます、おばちゃん、そんなたいへんやのに来てもろて」
「それでもそないしてでも、来る値打ちあるえ。赤ちゃんはええわあ。可愛いわ、ほんまに可愛いわ」と母。
「元気、もらえるわ」と伯母。

産院をあとにし、伯母と別れたあと、商店街の漬け物屋さんへ足をのばした。疲れただろうと思ったが、お漬け物を買いたがっていたので尋ねると、「行く行く」という。
漬け物屋さんのおかみさんは母のおしゃべり友達で、毎日のように買い物に来ていた頃は必ず足を止め、子育てのこと、姑のこと、実の親兄弟のことなどふたりで愚痴の大売り出しをし合ったそうだ。今、商店街ヘ行くのは母にとってあまりに「遠足」だが、漬け物屋さんにはときどき連れていくことにしている。
「姪の娘に赤ちゃんが生まれて、見てきたんえ」
「そらええわあ。できたてほやほやや。生命力、もらわんとなあ」

ほんとうに、Mちゃんの赤ちゃんのおかげで、母には少し活力がついたように見えた。
しかしそれから間もなく、ちょっぴり活気づいたことが徒になる出来事が起きてしまう。
まったく、物事はうまくいかないようにできているらしい。

2014年8月22日金曜日

"Elle était si belle, vraiment, comme si c'était une fée!"

従姉の娘のMちゃんが、大きなお腹を抱えて訪ねてくれた。
来月7日が予定日だ。

Mちゃんは私が高校2年生の時に生まれた。翌年にはその妹、Yちゃんも生まれた。すでに高校生活に飽き飽きしていた私は宝石のような赤子の誕生に宝くじにでも当たったかのように有頂天になり、週末を待ちかねて従姉の家を訪ね、ひとしきり赤ん坊の相手をして遊んだ。従姉はとても美人で、ダンナも昭和な色男で(笑)、当然のことながら娘たちは二人とも器量よしだ。遊びに行くたび愛らしさが増し、目の中に入れても痛くないとはこのことだぞ、とこれじゃあまるで初孫を見守るジイジ・バアバの心境だけど、ほんとうに、その成長に立ち会える幸せを存分に味わった。

そのMちゃんが、お母さんになる。なんだか感無量だ。

先に結婚したのはYちゃんだった。年下のダーリンはYちゃんにメロメロで(笑)献身の限りを尽くしているらしい(笑)。「ほんま、ええ婿殿やけど、ちょっと痛々しいな……と思う時、あるわ。ははは」と笑うのは従姉のダンナ。そんなYちゃん夫婦にはまだ子どもがなく、バリバリ働いていてまったく結婚のケの字もなさそうだったMちゃんが突如結婚すると言ったと思ったら妊娠も判明。Yちゃん夫婦による初孫のプレゼントを心待ちにしていた従姉夫婦はさぞかし仰天しただろうな、どんな顔してMちゃんから話を聞いたのだろう、と私は半ば面白がりながら、事の顛末を聞いた。
Mちゃんが30代半ばにさしかかり、妊娠・出産のリスクが高まることが従姉にとってはいちばんの気がかりだったという。「あんまり口うるそう言いとうなかったけど、子どもは早よ産んだほうがええねん、好きな人がいたら仕事は二の次にして結婚しい、って何回言うたかわからんわ。ほな突然両方来た。もう、かなんわ」と諦め顔で話す従姉。Mちゃんの伴侶となるのはひとまわり年上の働き盛りの40代。「お互いに前から知り合ってたけど、そういう仲になったんはつい最近で、つきあい始めてすぐ結婚する気になったんやて」(従姉)
ふうん。人の縁ってわからないものだねえ。


この従姉は私のことを小さい頃から可愛がってくれ、まだひとりでは行けないところによく連れていってくれた。ゴジラ対モスラ、とかではない恋愛ものの洋画を初めて観にいったのは従姉とだった。ネックレスとか、ハンドバッグとか、ちょっと大人な店には従姉に連れていってもらった。私の母は、自分の兄嫁にあたるこの従姉の母親にたいへんよくしてもらっていたので、当然この従姉のことも可愛がり、また従姉が私を可愛がってくれるのでとても喜んでいた。いつも従姉にお金を預けて私に似合うものを選んでやってと、すこし小遣いも渡して、とても頼りにしていた。私にとっても母にとっても「大好きなお姉さん」だった従姉は、なんと22歳で嫁にいってしまった。披露宴に出た母が帰宅するなり、「この世の中にあんな可愛らしい花嫁さんやはるやろか。ほんまにきれいやった。可愛らしかった。T君(=昭和的美男子のダンナ)も凛々しいてタキシードよう似合うて、男前やったわ、お人形さんみたいな新郎新婦やったわ、ホンマにきれいなもん見せてもろたわ」と絶賛の嵐だったのを思い出す。
私以上に母もMちゃんYちゃん姉妹を可愛がった。年頃になった二人をいつも心配していた。Yちゃんの結婚には大喜びしたし、今度のMちゃんの慶事にも顔をほころばせた。早くもおめでただと聞いても動じることなく「そら、なによりやんか、よかったよかった」。だって自分の娘はいわゆる未婚の母だもんね、デキ婚がどないしたん、てなもんですわ(笑)。

弟の反応が面白かった。弟も、私に負けず劣らず、玉のようなM姫を舐めるように可愛がったクチである。
「Mちゃん結婚決まったんやて」
「ほお。そら、よかった。エエ歳やったしなあ、うん」
「ほんで、すでにおめでたやって」
「なにっ」
「9月に生まれんねんて」
「……たくもう」
「お相手やけどな」
「おう」
「ひとまわり年上やて」
「……ぬぁにっっっ……」
「バツイチやて」
「(無言)」
「でも前の奥さんとの間には子どもなかってんて」
「(無言)」
「まあいろいろあるけど、きまってよかったやんなあ」
「……許さん」
「へ?」
「許さんぞ、そいつ。どこのおっさんやねん。ワシと三つほどしか違わへんやんけ」
「アンタこの際関係ないやん(笑)」
「なんつうこっちゃねん。ほかの誰がどんな男の嫁になってもええけどな、なんでよりによってMがそんな目に遭わなあかんねん」
「アンタ親父か」
「ああもう、まったくもう」
「恋愛結婚やしな、いちおう。人身売買ちゃうし」
「許さんっ」

というわけで、親族一同から玉のように愛でられたMちゃんは、晴れてもうすぐ母になるのだ。男の子だとわかっているらしいが、きっと、Mちゃんの父に似て昭和的美男子なクラシックイケメンが誕生するのだ。楽しみだなあ。

「赤ちゃん見せにきてや、ってMちゃんにいうといてな。あんたもたいへんやけど、また一緒にウチ来てな」
Mちゃんが訪ねてくれた日はデイサービスの日だったので、会い損ねた母は従姉に電話をして大事にしいや、大事にしいて言うてや、と繰り返していた。
子どもが生まれるって、本当に素敵なことだ。
素晴しいことだ。
全身全霊で、祝いたい。


2014年7月6日日曜日

Les frères, les sœurs, les enfants

「占出さんが山一番やて。ほな、ことしはみなお産が軽うなるわ」
夕刊の一面を見て母がつぶやいた。

祇園祭の神事が7月1日から始まっている。
2日には巡行順を決めるくじ取り式があり、「占出山」(うらでやま)が山一番を引いた。
安産祈願の神を祀っているとして、古来高貴な身分の女性たちの信仰を集めたとして人気の山である。氏子の与るご利益は多々あれど、母の言うように、その年に一番を引いた山からはとりわけ恩恵をたくさん受けるのである。だから、妊婦さんはみな「ことしはなんにも心配いらへんわ」(母)。
だといいけどな。

今朝も住宅火災で幼児が焼け死ぬというニュースがあったが、高齢者人口が増えるというニュースのいっぽう、小さな命が不条理なかたちで奪われる例があとを断たない。書店や図書館に行くと、「イケてるイクメン」「愛のパパ料理」といった、近頃とみに家事育児参加の著しい男子たちを取材した雑誌や、あるいは男子自身によるハウツー本、料理本などがずらりと並ぶ。最近はお弁当本が人気のようだ。もう何年も前から、家族で連れだって歩いている時に子どもをだっこしたりベビーカーを押したりする男の姿は、妻と並んで歩くという形でならあったが、最近よく目にするのは父親だけが子連れで歩いているというパターンだ。幼い子を胸に抱いてその子とだけの会話の世界にとっぷり浸かっている父。ひとりを片腕に抱き、もうひとりの手をつなぎ、歌を口ずさみながら散歩する父。ダブルサイズのベビーカーに双児の赤ん坊を乗せ、そばをちょろちょろする上の子をたしなめながら歩く父。そんな父子の様子を見かけることも珍しくなくなった。
こんなに夫が家事や育児を積極的にしてくれるのなら、妻は存分にキャリアを描くことができ、不安なく第一子に続いて第二子、第三子と産もうという気に……なるというほど、世の中は単純で生易しくはない。ある家庭では実現可能なことが、別の家庭ではとうてい不可能であったり、夫婦で役割を分担して相互の負担を軽減する努力をしていたとしても、肝腎の妊娠にたどりつかない、あるいは、予算が立たなくて諦める。ただ、欲しくても子どもを持てない夫婦は昔からいたが、そもそも子どもを欲しくない、という夫婦または単身者が増えているという。

デイサービスで知り合う高齢者仲間とはついつい身の上話や若い頃の話になるという。母は「若手」なので「アンタ、うちの末の妹と同い年やわあ」と90代の「おねえさま」からいわれたりするらしい。母の世代あたりは少なくとも兄弟姉妹が5人以上いた。母は8人(内2人は早世)兄弟姉妹の末っ子だ。嫁入り支度をしてくれたのは十以上も年の離れた兄嫁たちだったと言って笑う。

私と弟の間に、ほんとうはもうひとり、母は身ごもったそうだ。流れてしまったが、母は今でも彼岸の墓参のたびに、水子供養を忘れない。しかし、流れた赤子のことじたいを口にすることはあまりなかった。同様の経験をもつ女性がデイ仲間にいたのだろうか。子どもの話をするうちに水子のことまで及んだのだろうか。いつだったかデイから帰宅して、昔流れた赤子のことばかりをつぶやき続けた日があった。
「かわいそうなことした」
「生まれてたらどんな子になってたやろ」

高慢で傲慢で偏見の強い姉と、理屈っぽく説教臭くこれまた偏見の強い弟に挟まれて、きっとストレス耐性の高い図太い人間に育ったのではないか。
いや、しかし、生まれてこなくて正解だったかも(笑)

「生まれとうても生まれてこれへん子もいるのに」
悲しいニュースを見聞きするたび母が溜め息をつく。母はわりと世間に無関心で、やいのやいのとみなが大騒ぎしているネタもほぼ知らない。小さな事件などは新聞記事を追っているはずなのにほとんど頭に入っていない。今うちにはラジオしかないが、テレビがあった頃からそんな調子だった。しかし、いま、同じような時代を生きてきたご婦人たちとの会話を通じて昔の記憶が掘り起こされている。自分の経験とリンクするような事件や話題には、いつまでもいつまでも、もつれてほどけない糸をもてあそぶようにして、食いついている。

占出さんのご利益が、すべてのプレママさんに行き渡るといいな。
そして、子どもをもちたい人がためらいなくもつことができ、子どもをもたないひとも後ろめたさなど感じないですむように、山鉾の神さんによう拝まんとあかんね。


2014年6月29日日曜日

"C'est peut-être grâce aux gâteaux que tu fais pour moi."

先週、糖尿病の主治医を訪れ、月イチの定期検診を受けた。
血液検査と尿検査(尿は自宅採取を持参)。検査業者に回して得られる詳細な結果は次回にしかわからないが、ヘモグロビンA1c(=HbA1c 〈NGSP〉%)と血糖値は即時に数値が出る。
血液採取後、少し待機。
改めて呼ばれて診察室に入る。

「下がりました。下がりましたよ!」
開口一番、弾んだ声で主治医が母を迎えた。
昨秋以降8か月の間ずっと下がらなかった数値がやっと下がったのである。
この日の測定で、8%以上が続いていたHbA1cが7%台に下がり、楽に200以上、250以上を出していた血糖値は180だった。
測定器の気まぐれか故障じゃないのか。冗談ではなく私はそう思った。精確な値だとしたら、食生活改善の効果というのはこれほどまでにゆっくりとしか目に見えてこないものなんだな。
8か月以前はどうだったのかというと、6・7・8月と少し数値が改善した時期があったのだ。なぜその時期下がっていたのかというと、これは推測だが、4〜5月の1か月の入院期間、母は病院のいわゆる病院食、しかも糖尿病食をいただいていたので、その効果が絶大だったのである。メニューだけ見ると普通の食事なのだが、味つけや調味料の使いかた、そして全体の分量がとてつもなく「控えめ」なのである。ただ母は、朝・昼・晩の食事そのものは前から量は多くないので、病院での食事に不平はいわなかった。
母の糖尿は今始まった話ではないし、娘も糖質制限をしていたので、我が家の食事はここ数年、いたって低カロリー低糖質、超ヘルシーだったので、母は家での食事とのギャップはさほど感じなかったのではないだろうか。

ただし、である。母の場合、問題は間食である。しかも、その摂りかたが凄まじかったのである。

ここ2〜3年、私も弟たちも、たまには母にもデザートを、と思って糖質オフの菓子を買ってきたり、材料を考慮して手づくりしたり、と工夫しておやつを与えてきたのだが、とにかくコテコテに甘いものを好む人なので、私たちが用意するものではもの足りなかったのであろう。頻繁にご近所の和菓子屋に出かけては、あるいは最寄りのコンビニに通っては、あんこたっぷりのまんじゅうとかカスタードとホイップのダブルシュークリームとか、そんな、日頃のヘルシー食生活を「御破算」に帰すような、おやつをお腹いっぱいに食べる習慣がいつの間にかついていたのである。そのせいで、母の血糖値検査の結果はすこぶる悪かった。

ところが、入院中は間食もなにも、3度の糖尿病食以外にはない。検査があるとその前夜や朝は食事抜きだ。母は、かなりの欠乏感を覚えていたに違いない。だが幸いにも、そんな修行のような日々を送った影響は大きかった。退院後再びジャンクデザートに溺れる毎日に戻っても、「健康」方向に振れた針はしばらくそこに留まっていてくれたのだ。退院後再開したかかりつけ医のもとでの月イチ血液検査では、入院以前のあれはなんだったんだと思うほど、良好な数値が3度ほど続いた。
しかし、そこまでだった。秋口からHbA1c、血糖値ともに上昇を示し、血糖を抑える薬を変えても増やしても、効果は出ないのであった。再び食べ始めたジャンクデザートの影響に違いなかった。
「ご飯をもう少し減らしましょうか」「おやつはやめてくださいね」
あまり言いたくないんですけどねという表情をしたドクターが悲しげに忠告する。月イチ受診の慣例になってしまっていた。

*

4月以降、私が勤めを辞めて家に居るようになり、母の間食も原則手づくりしている。
大豆粉やおからをメインにしたマフィンやケーキ、ヨーグルトと煮リンゴ、豆腐の生クリームを添えたそば粉のパンケーキ、といった具合である。
甘いものがなにより好きな母にはもの足りないことこの上ないはずだ。もっと甘いものを食べたい食べたい食べたいと日々念じて生きているはずだ(笑)。しかし、ようやく数値が下がったと聞いて嬉しくないはずがない。味気ないおやつに我慢してきた甲斐があったと思ったかどうか。

「あんたがいつもつくってくれるおやつのおかげやなあ」

会計を待つ間、待合室で母がぽつりといった。
そうかもしれないが、それだけではない。
しかし、母が真面目にそう思ってくれるのなら嬉しいし、糖分たっぷりの市販のお菓子なんか食べずに私のつくるものだけを食べていようと「改心」してくれるならいい。

たぶん、リハビリデイサービスに通い始めたことも要因のひとつだ。
そして、おやつよりも三度の食事の内容のほうが大きいと思う。主食から徹底的に精白したものを除いている。おまけに大根のみじん切りをご飯に加えてかさを増している。母は1/2膳程度しか食べないが、その半分は玄米、1/4はマンナンご飯、1/4は大根である。
大根を加えるようになったのは今年に入ってからだが、玄米とマンナンご飯の混合主食はもう2年続けている。ようやく功を奏してきたということかもしれない。とにかく、母の体は反応が遅い。イラつかず根気づよく継続するのみ。おやつの力で今後も血糖値を下げていこう(笑)。


2014年6月18日水曜日

"Je ne sais pas si j'étais trop fatiguée."

先月末のこと。デイサービスのスタッフから「たいへんお熱が高いのですが」と電話がかかった。

デイサービスヘ行くと、着いてすぐにまずヴァイタルチェックがある。体温、血圧、脈拍を測る。母はいつも体温が高めである。平熱が37度なんです、ということにしているが、ほんとうは平熱は36度台のはずだ。送迎されているとはいえデイサービスへ到着するまでの運動量は母にとって長距離を走ったに等しいので、有酸素運動過多によって体温も上がっていると思われるのである。
デイの連絡帳にはヴァイタルチェックが記録されていて、いつも母は37度あたりを記録されている。

だが、この日、ヴァイタルチェックで39度を超えているという。
「え? なんででしょうね。様子はどうですか」
「ご様子はお元気なんですけど……念のため2回は測りましたが、やっぱり39度を超えてまして」

デイサービスの送迎車は毎回8時50分に我が家へ到着する。毎回母は10分くらい前から上がり框に座ってスタッフが来るのを待つ。この日もいつものように準備をして、機嫌よく送迎車に乗って出かけたのだったが。
保育園と同じで、病気になったら預かってはもらえない(笑)。ほかの利用者にうつるのを防がなくてはいけないし、家族が困るのはわかっているけど置いてはおけないのである。違うのは、介護サービスは施設側が送り届けてくれることである。
「お医者さんに行かれるのでしたら、そこまでお送りしますよ」
それなら、とかかりつけ医の所在地を説明し、そこまで連れてきてもらうことにした。

まだ10時になっていなかった。母がデイへ出かける日に外出予定を寄せて集めて(笑)こなすのだが、この日の予定はすべてチャラになってしまった。参ったなあ、と思わず口をついて出た。
診療所ヘ行くと、デイの送迎車がちょうど到着したところだった。運転は朝迎えに来てくれた男性スタッフだった。
「すみません、お手間とりまして。せっかく迎えに来てもろたのに」
「いいえ、そういえば今朝はいつにもまして足許ふらついてるなあ、と思たんです」
「そうですか」
足がふらふらなのはいつものことだ。しかし、「いつも」とのほんのわずかな違いを察知できるのは、こうした第三者的な立場でありなおかつ恒常的に対象を見ている人ならでは、といっていいのだろう。同居しているから、いちばん近くにいるからすべて関知しているとは限らない。朝食の途中で何度も椅子からずり落ちそうになったなそういえば、と、「いつにもまして足許ふらついてる」というスタッフの言葉を聞いて初めて思い至ったが、ほんとうならそのときに私がなんか今日は様子がおかしいと気づくべきなんだろうし、ずり落ちそうになる母を数回にわたって支え起こしていながら体がいつもより熱いと気づくはずなんだろう。「近すぎる」と、肝腎な時に限って盲いてしまう。

糖尿病のかかりつけ医とは月イチ検診で会っている。母の病状はよくもなっていないが悪化もしていない。つまり安定しているので、血糖値検査と投薬調整だけで、実をいうとなんとなく受診の意味に疑問符を振りたくなることしばしばなんだが、つねづね診てもらっていないと、この日のように突発的な発熱とか病変とかがあった時に、やはり困るのであろう。「急に高い熱が出たんやねえ、どうしたんやろうねえ」と主治医はにこやかな表情で母に話しかけた。娘がかかっていた小児科医とおんなじだ、と思った。臨床医は優しい言葉と柔和な笑顔がつくれないと務まらない。よほど腕がいい場合を除いて、無愛想で乱暴な言葉遣いだと評判は地に落ち客(患者)の足は遠のく。この医師はそういう意味では申し分ない部類に入ると思うが、若干思い切りが悪いような気がする。躊躇しがちであったり、あるいは様子を見ようといって長期間結論を出さずにいたり、こうしよう、いややっぱりこうしようと指示や方針を変えたり……大なり小なりどんな医師にもある傾向だけど、過ぎると大事な時に判断を誤ってくれちゃいそうな嫌な予感に導かれる。

ま、それはそれとして。

主治医は「つい最近インフルエンザの患者さんもいたのでね、その可能性もあるし検査しましょう」「お年寄りは肺炎が怖いから胸のレントゲンも撮りましょう」あれも、これもと車検チェックシートを確認するみたいに急に高熱を出す原因をつぶしていった。つまり、母にはそのような予兆は見えていなかったし、月イチの検診結果はいつも穏やかであったから、急な発熱は外部因子によるはずと思ったに違いないのだった。

しかし私は、前夜からの母の様子、ここ数日の母の行動などを、記憶をたどりながら確かめていくうちに発熱の理由をつきとめた。インフルエンザに感染などするはずがない、私以外とはほとんど接触していないのだから。咳は出ていないし、呼吸もいたって健全であるから肺炎も考えられない。
発熱の原因は、母特有の気疲れと、体力の消耗だ。
5月、母にとっての大きなイベントがいくつかあった。

1)ショートステイを体験した。3泊4日。
2)リハビリデイサービスに通い始めた。
3)ご近所に慶事があったので、ある大安の日曜日、ご近所と誘い合わせてそのお宅を訪問しお祝いにした。
4)親戚内にも慶事があり、ある大安の土曜日、じぶんのきょうだいたちとその親戚を訪ね、お祝いした。

とくに(3)と(4)はたいへん非日常的なことなので、ずっとずっと以前から頻繁にその話題をもちだしてはどうしようこうしようああしようとひとりで問題提起してはひとりで議論しひとりで合点していた。5月の後半は気疲れMAXであったろう。
「たっぷり眠れば治る」と直感した。

主治医は解熱剤のほかに抗菌薬も出してくれたが、たぶん、ぐっすり寝れば熱は下がる。まあしかし、処方された薬はおとなしく全部服用しましょう。
予想どおり、その日の夕刻には母の体温は「平熱」の37度近くまで下がった。解熱剤の効果もあったと思うのだが、帰宅してすぐまず薬を飲み、少し横になりよし、という私の言葉にしたがってパジャマに着替えてベッドに横たわったとたん、ぐーぐーと眠りこけ、昼食の時間になっても起きないで眠り続けた。夕方5時を過ぎてようやく目を開いたので一度起きるように声をかけた。熱を測ると37.5度までさがっており、こしらえた卵粥をペロリとたいらげた。そのあとまた横になり、続いてごおおおおーーーといびきをかいて激しく眠りこけた。夜半に一度起きたときはさらに体温が下がっていた。このぶんだと明日はたぶん通常どおり動こうとするだろう、と私は思った。
翌朝、母はいつものとおりに起きて着替え、ダイニングまで歩き、いつもの椅子にてん、と座った。発熱でさらに体力を失ったようにも見えるが、横になっていた時間が長過ぎて、「体がおかしいなるわ」と感じ、これ以上寝るのは止めようと思ったらしい。

「疲れたんやねえ。たくさんせなあかんことあったし」
「疲れたんやろか」
「そうやで。ぎょうさん寝たら、熱下がったやん。疲労回復できたんや」
「疲れるようなことしたかいなあ」
「お出かけ、増えたし。お祝いごとで気いも遣たし」
「そんなことできつう疲れたんか……自分では全然わからへん、キツう疲れてたかどうやなんて」
「自分がしんどいのかどうかがわからんようになったら、人間おしまいやで(笑)」
「ほんまやなあ」

熱は下がったが、けっきょくこの週はデイサービスをすべて休んだ。加えて、やはり多少動きが鈍くなって諸動作が危なっかしい。そんなわけでほぼつきっきりでそばにいなくてはならなかった。特別に用事が増えたわけではなかったが、自由に動き回れなかったのは少々(かなり)キツかった。私も疲労を溜め込んで、週の終わりには相当バテていた(笑)。いまから対策練らないと、ヤバいな。